「潮江先輩、これが各委員会の予算案になります」


 こんなに静かな予算会議が今まであっただろうか。しん、と静まり返った会計委員会室には各委員会の上級生のみが集められ、それぞれが緊張した面持ちで、文次郎の目の前で珍しく真面目な顔をした名字を見つめていた。今ここにいる人間のほとんどが、今の状況が理解できていないのだろう。実際、怪訝な顔で名字を見ている上級生が多い。私自身、喜八郎に「予算会議が始まります」と言われなければ、今日が予算会議だと知らずに過ごすところだった。皆、同じようなものだろう。それ以降の説明は何もなければ、私はそもそも予算案など作ってさえいない。そう言った私に対して、喜八郎は「構いませんよ」と返したきりだ。予算案がない状態で予算会議などできるわけがない。では、何故。その答えは、予算会議が始まってすぐにわかった。ふいに名字が立ち上がり、文次郎の前に予算案の束を差し出したのだ。がたっ、と音を立てて小平太が立ち上がる。それにつられるように何人かの上級生も立ち上がった。私も小平太を追い、留三郎とともに名字に詰め寄る。名字は表情ひとつ変えない。


「なんで名前が体育委員会の予算案を持っているんだ!」
「体育委員会だけじゃない。全委員会分だろ、それ」
「そもそも、私たちは予算案など作っていないのに、何故予算案がある。答えろ」


 小平太が名字の胸ぐらを掴んで、引き寄せる。名字は無理やり膝立ちになる形になり、苦しそうに表情を歪めた。立ち上がらなった奴らが名字の名を呼んで、駆け寄ってこようとするのを伊作が手で制した。伊作に視線を移せば、何故か気まずそうに視線を逸らす。文次郎も長次も何も言わない。私が知らないところで、一体何が起きているんだ。
 けほ、と咳をこぼした名字が、小平太の手に自分の手を重ねる。名字が「すべてお答えしますから、離してください」と言い、小平太がそれにおとなしくわけもなく、もう一度「答えろっ!」と名字の体を揺らす。その手を掴んだのは、伊作だった。


「小平太、名前から手を離して」
「伊作!そもそもどうしてお前がいるのに、名字が出てくるんだ!?保健委員長はお前だろ!」
「じゃあ聞いて、小平太。君は今日が予算会議だと知っていた?」
「…いや」
「じゃあ、最後に体育委員会でマラソンやバレーをしたのはいつ?昨日?一昨日?それとも、二か月前?」
「………」


 小平太は口を開閉し、悔しそうに顔を歪め、荒々しく名字の衿を離す。伊作がそれを優しい手つきで直してやっていた。それを嬉しそうに受け入れる名字との間に、わだかまりなど一切感じない。浮かび上がるのは、疑問。さっきの伊作の言葉は、私や留三郎、後ろで様子をうかがっていた上級生にとっても、強く胸を打つ言葉だった。伊作の言葉に、はっとした顔をする者もいれば、悲しそうに俯く者もいる。反応はそれぞれだが、苦しそうな表情は同じだ。かくいう私も皆と同じ顔をしていることだろう。最後に作法委員会に顔を出したのはいつだったか。それを思い出そうとすればするほど、身体がさあ、と冷えていく。私たちは、何もしていないのだ。
 呆然とする私たちを見渡した名字が、くすり、と笑う。まるで嘲笑うかのようなそれにカッと頭に血が上るが、それを制したのも、名字の冷たい声だった。


「さて、みなさんお気づきのようですので、私からは何も言うことはありません。せいぜい悔いてください。決して誰かのせいにするようなことはしないでください。悪いのは、天女とは名ばかりのただの女の子に翻弄されて、今まで必死に自分が大切にしてきたものを蔑にした貴方たちです」


 その言葉に反論できる者は誰もいなかった。しん、と静まり返った会計委員会室には、どんっ、と床に拳を振り落とす音が響き、それにつられるように誰かの嗚咽が零れる。私は唇を噛み締め、床に視線を落としたまま動けなかった。すべて、名字の言うとおりだ。ぱさ、と紙を持ち上げる音がする。視線を上げれば、名字が全委員会の予算案を持ち上げている。その表情は、先ほどに比べればかすかにやわらかい。


「この予算案は、潮江先輩と善法寺先輩、そして中在家先輩の力をお借りして、過去の決算書と照らし合わせ、それぞれの委員会にとって妥当な予算を割り当てました。各委員会の後輩たちや私の愛しい同輩たちにも手伝ってもらいました。みなさん、手が空きましたら、確認よろしくお願いします」


 手が、空いたら?名字の言葉に首を傾げる、と、がたんっ、と音をたてて戸を開けて、雪崩れるように会計委員会室に入ってきたのは、


「先輩…っ!」


 久しぶりに見る、後輩たちだった。








121007