朝起きたら滝夜叉丸が部屋にいなかった。いつもは口やかましく起こしてくるのに、珍しいこともあるものだ。静かな部屋で支度を終え、井戸で顔を洗い、ふらふらと廊下を歩き、騒がしい食堂に足を踏み入れたら、「喜八郎!」と僕たちを呼ぶ滝夜叉丸の声が聞こえた。その方へ顔を向けると、そこには滝夜叉丸と向かい合って座る名前がいた。


「名前…」


 ぽつり、と呟いた声は聞こえるはずがないのに、名前は僕を見て、ふわりと、あのいつもの笑顔を浮かべた。どきっ、と高鳴った心臓。この罪悪感のような、嫌悪感のような、気持ちの悪い感情は、なに?僕は気づけば食堂を飛び出していた。
 思ったより重い身体で息を切らし、逃げるように飛び込んだのは、自分の部屋。ぴしゃ、と勢い良く閉めた戸に背を預け、ずるずると落ちる。ばくばくと音をたてる心臓のあたりをぎゅ、と握り締める。さっきの気持ちの悪い感情が消えない。消えない。自分の膝を抱きしめ、組んだ腕に顔を埋める。わずかに震える身体には気づかないふりをした。
 名前が、僕を見て笑った。ただそれだけのこと。なのに、身体を駆け巡ったこの感覚は一体何だというの。名前、名前。いつも僕の味方でいてくれる名前。誰にでも優しい名前を繋ぎ留めておくために、できるだけ名前のそばを離れないようにしていた、はず。そうしておかないと、名前は消えてしまいそうだから。他の誰かに盗られてしまいそうだから。…じゃあ、最後に名前と話したのはいつ?抱き締めてもらったのは?頭を撫でてもらったのは?名前を呼んでもらったのは?ああ、このままじゃ誰に盗られてしまう。もしかしたらもう誰かのものになっているかも。そしたら、僕は、どうやって生きていけばいい?


「喜八郎」
「っ!」
「いるんだろ?入ってもいい?」
「だ、だめ」


 思わず否定の言葉が口からこぼれてしまった。そう、と小さく返ってきた名前の声に、後悔が渦巻く。嫌だ、だめ、行かないで、ここにいて。想いは言葉にならない。今の今まで、名前がいないことに何も感じていなかったことが恐い。名前がいないあの日々を思い出せば、今でもぞっとする。生きているのか死んでいるのかさえもわからない。それがどんなに怖くて、苦しかったか。どうして忘れていたんだろう。どうして、忘れることができたんだろう。さっきの感情の正体は、恐怖だったのか。あの時の恐怖や不安が再び襲いかかってきて、じわり、と涙が溢れた。ああ、名前、たすけて。名前がここにいるって、安心させて。
 ぐずぐず、とぐずりながら、僕は立ち上がり、ぴったりと閉まっていた戸を開けた。薄暗かった部屋に光が差し込む。ふと視界に入りこんだのは、見慣れた紫色の忍装束。戸の横に寄りかかって座り、こちらを見上げている、名前。突然のことに驚いて、大きく目を見開いた僕を見て、名前はふわりと笑った。それにまた、涙がこみ上げる。


「なん、で、」
「部屋に入るのは駄目って言われたけど、待ってるのは駄目って言われてないもの」
「…屁理屈」
「おや、しばらく見ない間に、随分と可愛くないことを言うようになったね。それはそれで寂しいなあ」
「…本当?寂しい?」
「もちろん、寂しいよ」


 困ったようにへにゃりと笑う名前の顔が涙で歪む。名前が僕の手を引く。それに惹かれるがまま、僕は名前の腕の中に落ちた。次々に溢れる涙が名前の忍装束を濡らしていく。僕を抱き締めてくれる腕は、依然と何も変わらない。柔らかい笑顔も、声も、何も変わらない。それがどんなに僕を安心させているか、名前はきっと知らない。


「鐘は既になってしまったよ。きっと滝と三木が怒っているだろうから、一緒に怒られようか。昼はタカ丸さんも誘って、久しぶりに五人で食べよう。それまでは、喜八郎の気が済むまで一緒にいるから、もう泣くのは最後にしておくれ」


 名前の穏やかな声にこくこくと頷き、僕は名前の首に腕を回した。










120819