明け方のことだった。誰かが四年長屋の廊下を走り、なにかにつまずいて盛大に転んだ音で私は目を覚ました。こんな何もないところで転べるのは、六年生の善法寺伊作先輩しかいないだろう。仕切りの向こう側で喜八郎が唸り、布団を被り直す音がする。どうやら喜八郎は無視を決め込んだらしい。私は仕方なく起き上がり、寝起きでだるい身体を引きずるように廊下に出た。案の定そこには善法寺先輩がひっくり返って、目を回していた。その光景に、思わずため息を吐く。


「善法寺先輩、大丈夫ですか」
「うーん…」


 軽く肩を揺すると、善法寺先輩がぱちり、と目を開き、そのまま勢いよく起き上がった。善法寺先輩の顔を覗き込んでいた私は避ける暇もなく、がつん、と頭突きをされる羽目に。あまりの痛さに頭を抱える私に「ごめん!」と謝って、善法寺先輩が立ち上がる。よく見れば、まだ日もほとんど登っていない時間だというのに、善法寺先輩は深緑色の忍装束を着ていた。任務の帰り、とは考えにくい。善法寺先輩からは薬の匂いがする。善法寺先輩から頭突きされた額をさすりながら立ち上がった私を見て、善法寺先輩がはっ、と息を飲む。私は眉間に皺を寄せる。


「こんな時間に何かあったのですか」
「あ、うん…、起こしちゃってごめんね、平」
「いえ。何かお手伝いしましょうか」
「え、いや、悪いよ」
「四年生の誰かに何か用があるのでしょう?」


 私がそう言えば、善法寺先輩は一瞬たじろいで、視線を床に落とした。何をそんなに言い淀む必要があるのだろう。この私が力を貸せば、解決しないことなどないというのに。善法寺先輩が「あー…」と言いながら、ちらちらと四年長屋の奥に視線を投げる。その先には、ろ組とは組のやつらがいる部屋がある。私の思考はひとつの答えに行きつく。善法寺先輩が交流のある四年生など、あいつしかいないじゃないか。


「…名前、ですか」
「…うん。実は、名前が鍛錬に行ったきり、帰ってきてなくて、医務室に寄るように言ったのに、いつまで待っても来ないから、」


 そこまで言って、善法寺先輩が突然顔を上げる。そして私を置いて、どこかに駆けだした善法寺先輩を目で追えば、そこには音もなく現れた名前が、しまった、と言いたげな顔をして立っていた。困ったように笑った名前に、どきり、と胸が騒ぐ。善法寺先輩が名前に駆け寄って、そのまま抱きしめた。む、と何かがこみ上げる。私は自分の寝巻を握り締めた。


「名前、心配したんだよ。何かあったの?怪我は?痛いところはない?」
「そんな、ふふ、私は小さな子どもじゃないですよ」
「だって名前は、聞かないと教えてくれないじゃないか」


 善法寺先輩の泣きそうな声を聞きながら、私は下唇を噛んだ。あの場所は、私の場所だったはず。寝巻が皺になるのも気にならないくらい、私は悔しさでいっぱいだった。奪われた、なんて言えない。離れたのは私の方だ。ぎりぎり、と布越しに爪が食い込む。下唇も血がにじむ。
 自然と下がっていた視線をふと上げると、名前と目が合う。途端、名前はふわりと笑った。そして、善法寺先輩から離れて、私の方に走ってくる。どいしたらいいかわからなくて、ただ立ちすくんでいると、名前はすっ、と手を伸ばし、私の唇の端を撫でた。ちく、と感じた痛みに。さっきまで唇を噛み締めていたことを思い出した。


「滝、おはよう」
「おは、よう、名前」
「唇が切れているよ、滝。せっかくの綺麗な顔が台無しだ」


 傷になる前に、善法寺先輩に治療してもらおうか。
 まるで女子にするような優しいしぐさでもう一度唇の端を撫で、名前の手が離れていく。優しく笑う名前に、泣きそうになる。私の手を取った名前は善法寺先輩を呼び、「ついでに足を怪我したので治療してください」と言って、善法寺先輩に怒られたいる。いつもと全く変わらない光景に、私はようやく笑みをこぼした。








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