裏山の、名字がいつも鍛錬に使っている場所に罠を張った。その罠にまんまと嵌った名字は足を投げ出して、太腿あたりに突き刺さる苦無に舌打ちをする。その様子にほくそ笑んでいれば、ぞくっ、と背筋が凍る感覚が私を襲う。見れば、名字が真っ直ぐにこちらを睨みつけていた。気付かれた?気配は消していたはずなのに、この私が、気づかれるなんて。


「そこにいるのでしょう、鉢屋先輩。気は済みましたか」


 やけに淡々とした声だった。むしろ、まるで嘲笑うかのように、口元には笑みを湛えている。私は名字から姿が見える場所に移動し、高い木の上から見下ろした。名字は野生の獣のような奴だ。もしかしたら、首一つでも噛みつかれるかもしれない。あの害のない笑みの下に隠した獣の顔を引きずり出してやりたいと思って、いつも名字を匿うようにそばを離れない四年の奴らがいない今、行動に移した結果がこれだ。どくどくと流れる深紅を名字は至極面倒くさそうに見つめて、溜息をひとつ吐いた。案外、つまらない反応だ。苦無を勢いよく引き抜き、そこに頭巾を当て、慣れた手つきで止血する名字に、私は声をかけてみた。


「痛いか、名字」
「ええ、もちろん」
「へえ、痛いのか」
「ええ、とても」
「そうは見えないけどな。お前、実は感覚ないんじゃないのか」
「ああ、痛い痛いと喚けばよかったですか」


 期待に沿えなくて、すみませんねえ。
 どこか馬鹿にしたような声色に、私は思わずかっ、と頭に血が上る。こいつは人の心を読むのがうまい。今何を言われれば喜ぶか、悲しむか、怒りを買うか、わかっていて行動するのだ。だから、名字は忍者に向いている。自分の言葉が及ばす影響を知っている。名字はその巧みな話術を使って、最近、綾の周りをうろうろする人間を減らしているようだ。そのおかげで綾といれる時間が増えた。それでも綾は、私を見つければ言うのだ、「名前くんを見ていない?」と。どうしてこいつなんだ。名字なんかより、私たちのほうが綾を見ているじゃないか。どうして綾は私じゃなくて、こいつを選ぶ?


「名字、お前に聞きたいことがある」
「なんですか、鉢屋先輩。傷が思ったよりも深いので、手短にお願いします」
「…お前は、綾の何だ」
「何って、何でもありませんよ。しいて言うなら、友達です」
「嘘を吐くな」
「嘘じゃありません」
「だったら、どうして綾はお前の姿ばかりを追うんだ!」


 木の枝から飛び降り、名字の胸ぐらを掴み上げる。ぐ、と息を飲む音がする。突然掴みかかった私に、名字は一瞬殺気を向けた。ぞっとするような感覚が襲う。それは、四年が放つような微力なものではなく、プロの忍者が本気で相手の命を奪おうとするときに放つそれに似ていて、私は思わず怯んでしまった。一瞬で消えた殺気の代わりに、名字は私に冷めきった視線を向ける。名字の顔に浮かんでいるのは、はっきりとした嫌悪。私は、動揺した。だって、だってだって、こいつは、私が何をしても最後には許してくれて、嫌悪なんて今まで一度も向けたことはなかったのに。
 私は、何も言わずに睨みつけてくる名字の視線に、今にも泣き出してしまいそうだった。


「…名字、私が、嫌いになったか」
「貴方は、私が嫌い、でしょう?」


 違う。そう否定したかった。でも、こんなことをしておいて、今さら嫌いではないとは言えなかった。何も答えず唇をかみしめた私を見ても、名字は動じない。何も言わない。それが絶望的なことのように思えて、私は名字の胸ぐらから手を離し、木の上に飛び上がる。そのまま、夜の影に姿を消した。

 「私を嫌いな人間を、私は好きでなんていられません」
 いつだったかに名字がそう話していたのをはっきりと覚えている。確かに、名字はその言葉通りに生きている。好いてくれる人間には、同じだけの愛を、嫌いだという人間には無関心を。だから、一時的だとしても、名字に対して嫌悪の感情を向けたときから、名字はもう私を好きにはなってくれない。そういう意味なのだ、あの言葉は。もう、前のようには、戻れない。
 どうしてこんなに動揺しているのだろうか。どうして、名字に嫌われたくないなんて、思っているのだろうか。嫌いだったはず、恨めしかったはず、なのに。
 頬を伝う涙は、しばらく止まってくれなかった。










120611