三木ヱ門くんの部屋から出てきた名前くんを見かけた。そして、その後を追う一匹の猫も。名前くんによく懐いているようで、にゃあ、と小さく鳴いて、名前くんの足にすり寄っている。名前くんはいとおしそうに微笑んで、猫の頭を撫でた。にゃあ、もう一度鳴いた猫は、そのまま縁側から降りて、駆けていってしまった。名前くんはそれを眺めて、ふと空を見上げる。空を見るのは名前くんの癖だった。そして、決まって泣きそうな顔をする。それを知っているのは、きっと僕だけ。


「名前くん」
「あ、タカ丸さん、こんにちは」
「こんにちは」


 突然現れた僕に、名前くんは驚くこともなく、いつものようにふわり微笑んだ。僕も笑って、名前くんに歩み寄る。名前くんは僕より背が低いから、自然と名前くんの髪が視界に入って、僕は、あ、と思わず声を漏らした。そして僕を見上げる名前くんの肩を掴むと、大きく目を見開いた名前くんの目を覗き込んだ。


「え、え、なんですか」
「名前くん一体どういうこと?」
「な、何がですか、え、え?」
「どうして髪が、こんなに痛んでいるの!?」


 名前くんはぱちくりとまばたきをして、そのまま固まった。そしてぷっ、と吹き出したかと思えば、くすくすと笑い始めた。口に拳を当て、堪えようとしているけど、まったく意味を成していない。なんか、久しぶりに楽しそうな名前くんを見た気がする。僕は名前くんの前より少し痛んだ髪を撫でた。指通りの悪くなった黒髪の感触に顔をしかめると、やっと笑いが治まった名前くんがあの、とても居心地のいい優しい笑顔で僕を見上げた。ああ、あたたかいなあ。


「タカ丸さん、相変わらずですね」
「…どうして、そんな、久しぶりに会ったみたいなこと言うの?」
「あ、つい、すみません」
「…あれ?最後に話したの、いつだっけ?」


 僕が口にしたその言葉はまるで呪いのように、気持ち悪さをまとっていた。名前くんはただ笑うだけで、何も答えない。あれ、あれ、本当に、いつだっけ。最近は綾ちゃんの髪を結ったり、仕事をお手伝いしたりしてて、全然名前くんと会えなくて、あれ?どうして名前くんと会えなかったの?せっかく綺麗な髪なのに、めんどくさがって手入れをしない名前くんの髪を結うのが当たり前だったのに。僕が髪に指を通すと気持ちよさそうに目を伏せる名前くんを見るたびに、この子に嫌われていないことに安堵して、いつも嬉しくなっていたのは、僕、なのに。あれ?そういえば、名前くんの姿を最後にちゃんと見たのは、あれ?あの、怪我をして帰ってきたと、先生に言われたとき…?
 僕は名前くんの上着の襟を掴み、がばっ、と開いた。途端、僕の手を掴んで止めた名前くんを見れば、明らかな混乱の色を浮かべていて、僕の手には思っていた以上に強い力が込められていた。


「何を、したいのですか、タカ丸さん」
「怪我っ、していたよね?もう大丈夫なの?痛くないの?あの時の名前くん、ほんとに死んでるみたいで、なのに、どうして僕、名前くんを、」
「タカ丸さん、落ち着いてください」
「でも、っ」
「泣かないでください、タカ丸さん、泣かないで」


 名前くんに指摘されて、自分の頬を伝う生温いものに気がついた。僕の手を掴んでいた名前くんの手が僕の涙を掬う。その手はかすかに震えていた。
 ああ、そういう君こそ、泣きそうじゃないか。
 腕を伸ばして、名前くんの身体を抱きしめる。名前くんは嫌な顔をするどころか、腕を当たり前のように背中に回してくれた。また涙がこみ上げる。小さな子どもをあやすように、名前くんがゆっくりと背中を撫でてくれる。前のときとは、逆になっちゃった。耳元で聞こえる名前くんの声がくすぐったい。


「怪我ならもう塞がりました。でもまだ完全に完治はしていなくて、無理に動くとまた開く可能性があるからと言われ、今は任務を休んでいます。身体がなまらないように鍛錬はしていますが、無理はしていません。タカ丸さん、他に聞きたいことはありますか」
「…名前くん」
「はい」
「ひとりで、泣いてない?」


 名前くんは僕の耳元で柔らかく笑って、「大丈夫です」と答えただけで、泣いていないとは言わなかった。ねえ、それが、嘘を吐けない名前くんの、精一杯の嘘だってこと、僕はもう知っているんだからね。
 それでも、僕はそれ以上何も言えなかった。名前くんを泣かせているのはきっと、僕たちだ。








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