部屋に戻る途中で、猫の声が聞こえた。どこかから迷い込んだのだろうか。首を傾げながらその声のしたほうへ進むと、自分と同じ紫の忍装束を着た男の姿を視界に捉えて、思わず足を止める。柱に背を預けて、ぼんやりと空を眺めているその姿が酷く懐かしいような気がした。何故だろう。あいつの姿なんて、探さなくても当たり前に隣にいたのに。胸の奥が熱い。どくどくと血が蠢く。その男がふとこちらに目を向けて、ふわりと笑った途端、僕は泣きたくなった。何故かはわからない。正体不明の感情が浮かんでは、落ちる。繰り返しては、胸に重い何かを残していく。
 名前は記憶にあるそれと何も変わらない笑顔で、僕を見つめていた。名前の膝には猫が一匹。猫の声の正体は、こいつだったのか。


「三木ヱ門じゃないか、こんにちは」
「あ、ああ、名前、…久しぶり、だな」
「毎日教室で会っているだろ、おかしなことを言わないでおくれ」


 不思議そうに首を傾げる名前に、僕は反応できなかった。ここ最近の記憶を辿ってみても、そこに名前の姿が見当たらなかったからだ。滝夜叉丸も、喜八郎も、タカ丸さんもいるのに、名前だけがいない。何故、?教室で座る席が変わったわけじゃない。長屋の部屋の位置も変わっていない。なのに、どうして。いつも僕たちの隣で微笑んでいたのは、放っておくと消えてしまいそうで気に掛けずにはいられなかったのは、誰だ。
 猫が鳴く。名前が自分の膝の上にいる猫に視線を落とし、猫の頭を撫でる。僕は、名前の視線が自分からはずれたことに酷く動揺していた。ぐらり、ぐらり、脳が視界が揺れる。それが示す意味が、わからない。ぴたりと動きを止めている僕を再び仰ぎ、名前の目に心配の色が浮かんだ。そのことに歓喜している意味が、わからない。これは、当たり前にあったはずのものなの、に?僕は名前の前に膝をつき、その丸い目を覗き込む。首を傾げてじっと見つめ返してくる名前に、なんとも言えない感情がこみあげてくる。猫の背を撫でていた手が僕の髪を撫でる。びくり、と肩を揺らした僕に慌てて離れていく名前の手を掴んで、握りこんだ。自分の行動の意味がわからない。だけど、今はただ名前に触れていたかった。


「三木、どうしたの。そんな悲しそうな顔をして、何かあったのかい」
「…名前、」
「なあに、三木」
「お前、今まで、何をしていたんだ」
「え?何をって、普通に学園生活を送っていたよ。授業を受けて、委員会に行って、任務はしばらく休むように言われたから、夜は鍛錬とか、」
「朝は、ひとりで?」
「うん。たまに寝坊することもあるけど、それがあんまり続くと数馬が起こしにきてくれるんだ。良い後輩だよねえ」
「じゃあ、食事は?」
「食堂に行ったときにいた子と食べているよ。それがどうかしたの、三木ヱ門」
「…名前、どうして、っ、…!」


 ぼろっ、とこぼれ落ちた涙に、名前が目を大きく見開く。困惑しているのが簡単に見て取れた。だけど僕の涙は止まらない。名前の手を強く強く握り締める。目を閉じてうつむいた僕に、名前の優しい手が触れる。涙を掬うように、頬を包み込むように、それは優しく降り注ぐ。涙で歪む視界の中で、名前は困ったように笑っていた。ああ、どうしてお前は僕のそばを離れたんだ。どうして僕たちがいないことを不思議に思わないんだ。僕たちが特別だと、確かに言ったのはお前なのに。なあ、どうして。


「三木、少し休んだほうがいい。きっと疲れているんだよ」
「ち、がうっ、違う、!」
「何が違うの?言ってごらん」
「、名前、どうしてっ、僕から離れたんだよ、!」


 僕がそう言うと、名前はきょとんと不思議そうな顔をした。猫がまた、鳴いた。
 僕はこの顔を知っている。名前が、本当に何を言われているかわからないときにする表情だ。授業中なんかはいつもこの顔で、ああ、ああ、
 僕は、名前に、何をした?


「先に離れていったのは、君たちだろう?」








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