「勘右衛門くん、名前くん見てない?」


 食堂の裏を通りかかったら、綾ちゃんが話しかけてきてくれた。いつもなら、それだけで舞い上がるほど嬉しいはずなのに、綾ちゃんの口から出た名前に、俺は舌打ちしたくなった。もちろん、綾ちゃんの前だからそんなことはしないけど。俺は笑顔を張り付けて、綾ちゃんに真っ直ぐ向き合う。綾ちゃんは割烹着を着ていても可愛いなあ。


「見てないや、ごめんね」
「そっかぁ。こちらこそいきなり呼びとめちゃってごめんね、ありがとう」
「名字に何か用事でもあるの?まさか、怪我?」
「ううん、怪我したわけじゃなくて、えへへ、ちょっとね」


 かすかに顔を赤く染めて、綾ちゃんは手で口元を隠して微笑んだ。その笑顔は最高に可愛いのだけど、それは俺のためのものじゃなくて名字のためかと思うと、腸が煮えくり返りそうだった。どうして名字なんだろう。いつもいつも、綾ちゃんが探しているのは名字だ。俺たちのことは一切探してくれないくせに。俺たちが探さないと、見向きもしてくれない癖に。好きなの?名字が?どうして?俺たちのほうが綾ちゃんを想っているのに?名字なんか、ちっとも綾ちゃんのことを考えていないじゃないか。
 汚い感情が渦を巻いていた俺の思考は、「あ、名前くんっ!」という弾んだ声で止まった。綾ちゃんが駆けていった方向に視線を向ければ、名字が困ったように笑っていた。はあ?綾ちゃんに駆け寄ってもらっておいて、どうして困った顔してんだよ。ふざけるな。


「綾さん、仕事の途中なのでは?」
「おばちゃんが休憩をくれたの。だから大丈夫!でね、名前くん、」
「名字」
「おや、尾浜先輩、こんにちは」


 ふわり、と名字はいつものように掴みどころのない笑顔を浮かべる。綾ちゃんの邪魔はしたくなかったんだけど、こんなに簡単に綾ちゃんを奪われちゃあ、ねえ?俺は名字と綾ちゃんの間に入り込む。綾ちゃんの腕を掴んで背中に隠せば、綾ちゃんは不思議そうに俺の名前を呼んだ。綾ちゃんの腕、細いなあ。ふふ、閉じ込めてしまえたらいいのに。そんなことしたら、他のみんなに殺されてしまうだろうからしないけど、いつかは、必ず。名字も不思議そうに首を傾げて、俺を見ている。前々から思っていたんだ。どんなことがあっても笑顔を絶やさず、一歩引いたような場所で俺たちを見ているお前の顔を、歪ませてやりたい、って。


「名字、最近どう?」
「え、何がですか」
「任務のこと。無害そうな顔してさ、お前、今まで何人の人を殺したんだよ」


 ああ、きっと今の俺の顔、酷い顔しているんだろうなあ。綾ちゃん、背中に隠しておいてよかった。こんな顔見られたら嫌われちゃう。名字の顔から、表情が消えた。綾ちゃんが身体を跳ねさせたのが掴んでいる腕から伝わってきた。思わず、口角が上がる。でも、その直後、名字は笑った。まるで俺を嘲笑うかのような意地の悪い笑みを浮かべて、ふふ、とおかしそうに笑ったのだ。途端、じとりとした悪寒が背中を走った。まずい、と本能が訴えている。俺は、名字を怒らせた。


「鉢屋先輩といい、貴方といい、五年生の先輩方は私のことが大層お嫌いのようですね。そんなに私が邪魔で憎いのなら、一層のこと消えて差し上げましょうか。そして、自分たちが今までしてきたことを後悔すればいい」


 まぁ、何を言ったところで、今の貴方には理解できないのでしょうけど。
 名字は至極つまらなそうに呟いて、俺に背を向けて歩き出した。はっ、と気付いた時には、綾ちゃんの腕がするりと手から抜けて、名字の後を追っていった。綾ちゃんはそのまま名字の隣を歩いて、泣き出しそうな顔で名字の顔を覗き込んでいる。どうして、今、心配すべきは名字じゃなくて、俺じゃないの。どうして、綾ちゃんが泣きそうになっているの。


「名前くん、消えるなんて言わないで、いなくならないで、名前くんがいなくなったら、わたし、」
「わかっています。すみません、ただの八つ当たりです」
「ごめんね、名前くん、ほんとにごめんね…」
「綾さんは何も悪くありませんから、どうか、泣かないでください」


 目元を手で擦る綾ちゃんの手を握って、悲しそうに見つめる名字の横顔を、二人の姿が角を曲がって見えなくなるまで、眺めていた。


 どうして、名字なの。
 その答えは、きっと誰もが知っている。だけどそれを認めたくなくて、悔しくて、名字が疎ましくて、憎くて、どうしたらいいのかわからないのだ。綾ちゃんを手に入れたいからって、名字を傷つけていい理由にはならない。それくらいはわかっているのに、止められない。止まらない。次々に浮かんでくるこの汚い感情を止める方法を、誰か教えて。








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