名前先輩は、入学したときから僕の憧れだった。


「みんな、ご飯だよ」


 名前先輩の声に顔を擡げた狼たちがくうん、と犬のように鳴いた。そして嬉しそうに駆け寄ってきて、名前先輩の身体にすり寄って、くうん、とまた鳴く。名前先輩はふわりと笑って、狼たちの頭を一頭ずつ撫でてやっていた。名前先輩に頭を撫でられ、僕の身体にもすり寄ってきた狼の頭を撫でてやると、満足そうに鼻を鳴らした。その様子を見て、名前先輩が微笑んでいる。だから僕も、精一杯の笑顔を返した。


「伊賀崎、ここが終われば終わりだ。頑張ろう」
「はい」
「おや、お前たち、少しお待ちよ」


 名前先輩が持つ餌箱に顔を突っ込んで、ふんふんと鼻を鳴らしている狼たちを宥めながら、ふわりと笑う。至極、楽しそうだ。
 もともと生物が好きだという名前先輩は、以前からよく生物委員会の手伝いをしてくれていた。ジュンコも名前先輩が好きで、ジュンコがいなくなったと思ったら、名前先輩の首で眠っていた、なんてこともよくあるくらいだ。そのおかげで名前先輩と他愛ない話ができるから、僕はいつも期待するようになった。ジュンコが逃げ出すのは、悪いことばかりではない。


「伊賀崎、こっちは終わったよ」
「こっちも終わりました」
「さて、さっさと片づけて、ジュンコを迎えに行かなくちゃねえ」


 空になった餌箱を片手に、僕の頭を優しく撫でるその手に、僕はいちいち泣きそうになる。優しく握られた手が、僕の前を歩くその背中が、泣いてもいいよ、と言っているようで、僕は名前先輩の話も聞かずに、必死に唇を噛み締めた。そうしていないと、涙が漏れてしまいそうだった。
 この人は優しい人だ。入学したばかりの、みんなが僕のことを毒虫野郎と呼んで、気味悪がっていたあの頃、名前先輩は情けなく泣きながら、ひとりでジュンコを探していた僕を手伝ってくれた。ジュンコに躊躇なく触れ、「綺麗な蛇だね」と笑ったときから、名前先輩は僕の憧れだった。ジュンコは毒蛇だと教えても、「人間のほうが毒じゃないか」と言って、どんな生物であろうと嫌がることはなかった。単純だと思うかもしれない。それでも、その時の僕にとって、その笑顔がただひとつの救いだった。それから名前先輩の背を追って、いつかその隣を歩けるようにと願う僕の手を、この人はいとも簡単に掬い上げて、笑うのだ。その甘い甘い優しさは、何よりの毒だ。
 名前先輩がふと歩みを止める。不思議に思って顔を上げれば、名前先輩が心配そうに僕を見ていた。ひんやりと冷たい指先がふいに僕の唇をなぞる。心臓が跳ねて、は、と息を吐く。名前先輩の指先が僕の頬を撫でる。


「伊賀崎、あまり唇を噛むと、切れてしまうよ」
「名前、先輩」
「我慢はよくないよ、伊賀崎。我慢はね、心を腐らせるんだ」


 途端、ぷつり、と何かが切れたように、僕の目からは涙があふれ出した。
 天女様が来てからというもの、竹谷先輩は生物の世話というものを完全に放棄した。ただでさえ、扱う生物の数に対して人手は全然足りていなかったのに、委員長代理の竹谷先輩が抜けたその穴は、あまりにも大きかった。途方に暮れていたら名前先輩が手伝うと言ってくれて、ぼろぼろだった小屋も補強してくれて、一年生たちも小さいながらに頑張ってくれて、それでどうにかなると思った。なのに、つい最近のことだ。天女様に夢中になっている上級生の先輩方が「逃げだした毒虫や毒蛇が天女様を噛んだりしたらどうしてくれるんだ」と、「そんな危険な生物がこれ以上管理できないようなら、始末してしまえ」と、言った。そこに竹谷先輩の姿があったかどうかはわからない。それよりも先輩方に言われたことに頭がついていかなかった。あの人たちは、僕の大切なペットを殺せと、そう言ったのだ。このことは名前先輩には言っていない。これ以上、名前先輩に迷惑をかけたくない。だから、誰にも言わないで我慢をしていた、のに。
 止まらない涙に困惑していると、名前先輩が腕を広げて、微笑んだ。


「おいで、伊賀崎。もうこれ以上、我慢をしないでおくれ」


 惹かれるがままにその腕の中に飛び込むと、名前先輩の腕が優しく包んでくれた。名前先輩の忍装束は、薬と土の匂いがした。







120513