「もうわかんない!名字先輩!」
「笹山、黒門が終わったらやってあげるから、少し待っていて、ね」


 ふわり、と蕩けるような甘い笑顔を浮かべた名字先輩に、僕は思わず見惚れる。橙色の着物は名字先輩の白い肌によく似合っていた。決して派手ではない、だけど艶やかな紅を薄い唇に差し、目尻にも軽く色を乗せている。目を伏せた姿は、そこら辺の女の人よりも女の人らしい。結ばれずに背中に落ちている長い髪は名字先輩の動きに合わせてさらり、さらり、と滑る。僕は着物が肌蹴ているのも気にせず、名字先輩に見入っていた。動作のひとつひとつまで綺麗で、目が離せない。若草色の着物を着付けてもらっている伝七は、耳まで真っ赤に染めている。いくら綺麗だからって、名字先輩は男なのに、馬鹿みたい。自分のことは棚に上げて伝七のことを心の中で馬鹿にしていると、腕に引っかかっているだけになっていた着物が持ち上げられ、肩にかけられる。頭上を見上げれば、藤色の着物を着た浦風先輩が呆れた顔をして僕を見下ろしていた。


「兵太夫、きちんと着ていないと風邪を引くぞ」
「大丈夫ですよー。浦風先輩も名字先輩に着付けてもらったんですか」
「そうだけど、兵太夫、何をさっきから拗ねているんだ」
「別に、拗ねてません」


 拗ねているわけじゃない。今日は委員会に名字先輩が来て、女装の作法を教えてくれるって、久々にちゃんと委員会ができるって思ってたのに、授業が延びてちょっと遅れてきちゃったせいで、名字先輩は伝七にかかりっきりになってるし、「笹山は器用だからね、自分でやれるところまでやってごらん」なんて言われちゃうしで、ちょーっとおもしろくないだけだもん。着付けはできないわけじゃないけど、伝七と浦風先輩は名字先輩に着付けてもらったのに、僕だけやってもらえないなんておかしいじゃん。ただそれだけのこと。だから別に拗ねているわけじゃない。
 僕は浦風先輩から視線を外し、再び名字先輩の姿を目で追う。伝七の衿や裾を直している名字先輩は、着付け終わった伝七の全身を眺め、「似合うよ、黒門」と満足そうに笑った。伝七は真っ赤な顔で「あっ、ありがとうございます…」とたどたどしくお礼を言っている。伝七の頭をゆるりと撫で、浦風先輩に伝七の髪を梳かすように頼んだあと、僕を手招いた。僕は桜色の着物を引きずり、名字先輩の前に立つと、するりと髪を梳いてくれる。その手が気持ちよくて、目を細めた。


「笹山、待たせてごめんね」


 ふんわりと微笑んだ名字先輩があまりに綺麗で、僕は頬が熱くなる。伝七、さっき馬鹿にしてごめん。名字先輩が慣れた手つきで着付けていくのをぼーっと眺める。あ、名字先輩、睫毛長い。肌も綺麗。香でも付けているのか、薄く白梅の匂いがする。立花先輩や綾部先輩も女装した姿はとても綺麗だけど、僕は名字先輩も同じくらい綺麗だと思う。普段からの動作の綺麗さも相まって、さらに。
 伝七が着付けてもらっているのを見ているときはすごく長く感じたのに、いざ自分がしてもらうとあっという間で、名字先輩はさっき伝七にしたときと同じように僕の頭をふわりと撫で、満足そうに笑う。本当は自分でできるけど、髪も名字先輩に結ってもらい、薄く化粧もしてもらった。真剣な表情の名字先輩にいちいちときめいてしまって、一言も話せないでいたら、名字先輩が突然ふはっと吹き出した。その一瞬で綺麗な女の人からいつもの名字先輩に戻った気がして、僕もつられて笑うと、名字先輩が優しい指先で僕の頬を撫でた。


「笹山、綺麗だよ。よく似合ってる」
「…名字先輩のほうが、綺麗です」
「ふふ、ありがとう」


 可愛い子。そう言ってどこか悲しそうに笑う名字先輩に、僕は何も言えなかった。このまま消えてしまいそうな名字先輩をつなぎ留めておきたくて、名字先輩の袖を掴む。上級生の先輩たちが委員会に来なくなって、僕たちはすごく悲しい毎日を過ごしている。だけど、僕たちの誰よりも悲しい思いをしているのは、きっと名字先輩で、でもそれを全然僕たちには見せてくれないから、何もできなくて余計に悲しい。どうして先輩たちは名字先輩のことを置いて、天女様を追いかけているんだろう。名字先輩がひとりぼっちになってしまうよ。この優しい人を悲しませないでよ。
 それぞれ着飾った僕たちをいとおしそうに眺める名字先輩の膝の上で、僕は名字先輩が小さく、消えゆくように囁いた言葉を聞いてしまった。その声は震えているように聞こえて、胸が締め付けられた。おなかの前で交差する名字先輩の手をぎゅうと握る。名字先輩がまた、笑う。


「みんな、笑っていてね」


 ねえ、そのなかに貴方は入っているの。








120505

伝七ちゃん、全然しゃべらせらんなかった。ごめんよ。