「皆本、マラソン行くよ」


 次屋先輩をつないだ縄を握り、時友先輩を連れて一年は組の教室をのぞいた名前先輩。一緒にいた団蔵と虎若がぴたりと動きを止めて、きょとんと首をかしげた。たぶん僕も二人と同じ顔をしている。
 七松先輩と平先輩が委員会に来なくなってから二週間以上が過ぎていた。今まで散々七松先輩の無茶に付き合ってきたのに、ここ最近は何もない。マラソンもバレーも塹壕掘りも、何も。確かに七松先輩の体力は化物みたいだし、平先輩の自慢話はすごくうんざりするけど、それでも僕は体育委員会が大好きだった。なのに、あの天女様が来てから、委員会は一度もまともに活動できていない。七松先輩も平先輩も、僕たちよりも天女様の方が大切になってしまったから。僕たちが委員会に誘っても、今は天女様を探しているから、天女様がお茶に誘ってくださったから、天女様と町に行くから、だからまた後でな、って、そればかり。そしてその約束は忘れ去られて、今日も先輩たちは天女様を追いかけている。七松先輩も平先輩も委員会に来ない今、次屋先輩が体育委員会を引っ張っていこうとしてくれたけど、やっぱり下級生だけではどうにもならない。そうしているうちに何もかもうまくいかないような気がして、僕たちを置いていった先輩たちが恨めしく思う僕がいた。
 だから、だから、名前先輩が「今日はマラソン日和だ」と笑ったとき、なぜか泣きそうになってしまった。七松先輩が急にマラソンを思いついた時の表情に似ていたかもしれない。僕が駆け寄ると、名前先輩は空いていた手を差し出した。


「今日は裏裏山までだよ。塹壕も掘ろう。みんながやりたいこと何でも付き合うよ」


 僕はやっぱり泣きそうになって、名前先輩に抱きついた。










「さて、次は何をしたい?」


 名前先輩は僕たちを見て、にこりと笑った。僕たちはその場にへたりと座り込み、楽しそうに笑う名前先輩を見上げるだけで、返事はできなかった。呼吸が整わない。苦しい。体力は七松先輩並みと噂されるだけあって、裏裏山まで走り続けたにも関わらず名前先輩の息は乱れていない。僕たちが途中で休んでいる間もどこかに行っていたし、名前先輩はここに来るまで一度も休んでいないのに。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す僕たちを見て、名前先輩はあ、と声を漏らす。そして僕と時友先輩の間に座り、「疲れたねえ」と笑った。絶対嘘だ。


「そういえば、名前先輩、何か探しているものでもあるんですか」
「え、何もないよ。どうして?」
「走っている最中にやたらきょろきょろしていらっしゃったので」
「嗚呼、そうか。あのね、君たち体育委員会の仕事は野外訓練用の道を走るだけではないんだよ。学園周辺の見回り、山賊などの動向調査、それに塹壕は罠にもなるし、いざというときに逃げ込むこともできるだろ。学園を外から守るために、体育委員会はあるんだよ。次屋はそれを知っていたから、私に相談してくれたんだよね」
「ちょっ、それ内緒にしてって、約束したじゃないっすか!」
「おや、そうだったかな。まあ良いじゃない。こんないい先輩を持てたことを誇りに思うといいよ、皆本、時友」


 名前先輩はふわりと笑って僕と時友先輩の頭を撫でてくれた。次屋先輩はふいっと名前先輩から顔をそらしたけど、少しだけ頬が赤い。そんな次屋先輩を見て、名前先輩は優しい笑顔を浮かべる。わいわいと談笑している先輩たちの会話を聞きながら、居心地の良さと適度なだるさに眠気が襲ってくる。うつらうつらしていると、名前先輩が「さて、と」と突然立ち上がり、胸元から苦無を取り出した。その時の名前先輩の笑顔は今までに見たどの笑顔よりも楽しそうで、僕はこの人も化物染みた体力があることを思い出した。


「私、塹壕掘りやってみたかったんだ」
「え、まだやるんすか、名前先輩」
「もう日も傾いてきましたよう」
「七松先輩ほど無茶はさせないから、ね。ほら、皆本も」


 次屋先輩や時友先輩の言うとおり、正直このまま学園に帰りたかったけど、頭を撫でる名前先輩の手があたたかかったから、その笑顔が酷く優しかったから、僕はつられるように笑顔になって、名前先輩の手を握り返した。







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