予算会議が近いというのに、会計委員長の潮江文次郎先輩と四年生の田村三木ヱ門先輩が委員会に来なくなったせいで、やらなくちゃいけないことは山のように溜まっていた。そんな中、下級生だけが集まって形ばかりの会計委員会を開いていた俺たちのところに、「お邪魔しまーす」と戸を叩いたのは保健委員の名字名前先輩だった。
 そして今、そろばんをはじく名前先輩の隣で、俺は必死に眠気と戦っていた。神埼先輩と佐吉は夜食を作りに行って、しばらく帰ってきていない。どうせ神埼先輩に振り回されて、佐吉まで学園内を迷子になっているんだと思う。どんまい、佐吉。あとで探しに行ってやるよ。ふっふっふ、と心の中で笑っていると、一瞬だけ意識が飛んで、かくん、と首が前に落ちる。何度かそれを繰り返していると、そのたびに名字先輩がくすくすと笑う。名字先輩が頑張ってくれているのだから、俺も寝ないように頑張らなくちゃと思えば思うほど意識は飛んでしまう。名字先輩はそろばんをはじいていた手で、俺の頭を優しく撫でた。


「加藤、もう寝てもいいよ」


 ゆるりと撫でる大きな手が心地よくて、このまま眠れたら幸せなのだろうけど、それでも俺はふるふると首を横に振る。すると名字先輩は困ったように笑いつつも、それ以上は何も言わず、再びそろばんに向き直った。名字先輩が来てくれたおかげで溜まっていた帳簿の山は着々と減っている。きり丸が「名前先輩は俺たちと変わらないくらい勉強が嫌いなんだぜ」と言っていたけど、そろばんをはじく姿からはそんなふうに思えない。いつもの会計委員会なら潮江先輩が鍛錬を始める頃だというのに、名字先輩は始めたときと変わらない姿勢で淡々と計算をこなしている。勉強ができないっていうのは嘘で、実は何でもできちゃうとかだったら、めちゃくちゃ格好良い。憧れる。眠い。違う。眠くない。黙っているから駄目なんだ、そうだ。よし、


「名字先輩、計算できるんですねー」
「それはどういう意味かな、加藤。座学はできなくても、きりのアルバイトに付き合っていたら自然とできるようになったよ。ほら、あの子、暗算だけは得意だろ」
「あんざん…、」
「ああ、加藤、もう目が開いていないじゃないか。ほら、おいで。私もそろそろ休むから、一緒に部屋に戻ろう」


 名字先輩がそろばんの上に乗っているだけだった俺の手を取って、立ち上がろうとして崩れ落ちた。四つん這いになって動かなくなった名字先輩に首を傾げていると、名字先輩はむくりと顔を上げ、やけにゆっくりと立ち上がる。その表情は何かを耐えるように唇を結んでいる。あ、わかった。足が痺れたんだ。俺も帳簿の計算しているときによくなるから、解決法知ってるんだ。痛みに耐えている名字先輩の足をそーっと軽く手で押すと、名字先輩が飛び上がった。そしてそのまま畳の上に膝をつく。


「こら、加藤、会計委員会のお前ならこの痛みを知っているだろ。何故触るんだ。今手の先まで痺れた」
「足が痺れたときはこうやって爪先を伸ばすといいんですよ。ほらほら、名字先輩もやってください」
「いや待て、これは痛い、痛いよ加藤」
「我慢してくださーい」
「加藤お願いだから足を触らないで!」


 名字先輩にじゃれついて、二人で笑った。なんだか久しぶりに笑ったような気が、する、かも。あれ?俺、いつからちゃんと笑ってなかったんだろ。考えるまでもなく、あの天女様が来てからなんだけどさ。みんなはあの天女様が先輩たちを奪っていった、なんて言ってるけど、潮江先輩がいないと朝まで帳簿の計算しなくて済むし、会計委員会の仕事は名字先輩がたまに手伝いに来てくれるって言うし、俺はあんまり天女さまに興味ないや。だけど、金吾と虎若が先輩たちが委員会に来ないことを気にしてるみたいだったから、二人に名字先輩の話をしてやろっと。そしたらちょっとは元気になるかな。
 虎若が眠る部屋の前で「いい夢を見るんだよ」と頭を撫でてくれた名字先輩に手を振って、俺は部屋に戻ってゆっくり眠った。その日に見た夢ははっきりと覚えていなかったけど、すごく幸せな夢だった気がする。それはきっと名字先輩のおかげだと思うんだ。







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このあと主人公は無事に左門と佐吉を捕獲しました。