名前先輩が天女様を見て、大きく目を見開いたのを見たとき、僕、神様にお願いしたんだ。何でもするから、僕たちから名前先輩を奪わないで、って。乱太郎にそのことを言ったら、乱太郎もおんなじことをお願いしたんだって。だからだと思うの。今こうして名前先輩が当たり前みたいに保健委員会に来て、僕たちの隣で笑っていてくれるのは、神様が僕たちのお願いを叶えてくれたからだと思うの。

 今日の当番は名前先輩。だけど僕は授業が終わってすぐに医務室に向かった。名前先輩の怪我が良くなるまで僕たちは交代でお手伝いすることにしたのだ。三反田先輩が「名前先輩をひとり占めできる時間だぞ」って言ったから、みんなで取り合いみたいになったのを思い出して、顔がにやけた。名前先輩をひとり占めできる時間。早く自分の番にならないかなって、毎日指折り数えていたら、ろ組のみんなに羨ましがられた。ふふ、いいでしょ。


「名前せんぱあい」
「おや、伏木蔵。今日も手伝いに来てくれたのかい」
「名前先輩はすぐに無理するから見張りです〜」
「昨日は左近に厭味たっぷりで同じことを言われてしまったよ」
「僕たち、名前先輩が心配なんですよ〜」
「うん、わかっているよ。いつもありがとう、伏木蔵」


 医務室の戸を開けて中を覗き込んだ僕を見て、ふわりと笑った名前先輩に駆け寄る。そのまま小さな子どもみたいに抱きつくと、薬草をすり潰していた手を休めて、僕の身体をぎゅっと抱きしめてくれた。「ふふ、可愛い、可愛い」と耳元で笑う名前先輩の声がくすぐったくて、僕は名前先輩の肩に顔を埋めた。赤紫の忍装束には薬の匂いがすっかりしみついている。前は白梅の良い香りがしていたのに、とても残念。
 そうやって名前先輩に甘えていると、廊下から誰かが走ってくる音が聞こえてきた。この学園でこんな無防備に足音をたてるのは、一人だけ。今の時間は食堂でおばちゃんのお手伝いをしているはずの、あの天女様だけ。僕はぎゅっと名前先輩の抱きつく腕に力を込める。名前先輩の手が僕の背中を優しく叩く。「大丈夫だよ」って僕を宥める名前先輩の声に頷いてみるけど、僕は不安で仕方なかった。
 医務室に駆け込んできた天女様は淡い山吹色の小袖を身につけ、息を切らしていた。相変わらず綺麗だとは思うけど、僕から見たらおばけなんかよりも怖いもののように見えた。


「名前くんっ!」
「おや、こんにちは、綾さん。そんなに急いで何か私に御用ですか」
「伊作くんが喜八郎くんの落とし穴に落ちちゃったの!助けてあげて!」
「その前に綾さん、その腕の怪我、治療してしまいましょう。伏木蔵、薬と包帯を取ってくれるかな」
「でも、伊作くんが、」
「彼も忍者のたまご、怪我には慣れているはずです。綾さんはまだ地上に来たばかり。何かがあってからでは遅いのです」
「だから、わたし、天女じゃないってば」
「はいはい。さあ、こちらにどうぞ」


 名前先輩は僕たちに向けるものとまったく同じ笑顔を天女様に向けた。少しふてくされた顔をして名前先輩の前に座った天女様の手を優しく取って、僕が準備した濡れた手ぬぐいでそれはそれは優しく、壊れやすいものを扱うみたいに拭いていく。天女様が「いたっ」と腕を引くたびに「我慢、我慢」と笑う。素早く治療を終えた名前先輩に満面の笑みでお礼を言う天女様を見ていたら、僕は胸の中がもやもやしたものでいっぱいになった。名前先輩もにこにこと笑って、ゆっくりと立ち上がる。もやもやがぐるぐると渦を巻く。行ってしまう。名前先輩が、いなくなってしまう。天女様と行ってしまう。伊作先輩みたいに。
 手招きする天女様の後に続いて医務室から出ていこうとする名前先輩の手をとっさに掴む。天女様はもうすでに廊下に出てしまって、今ここにはいない。名前先輩は僕に目線を合わせるようにしゃがんで、優しく頭を撫でてくれた。


「大丈夫だよ、伏木蔵。だからそんな悲しそうな顔をしないで、ね」
「名前先輩…」
「すぐに戻ってくるから、少しの間、留守番をしていてくれ。頼んだよ」


 名前先輩の言葉に、僕は小さくうなずく。「いい子だね」と笑った名前先輩は救急箱を片手に、天女様に急かされて医務室を出ていった。まだ怪我が治っていないから、自分よりも大きい伊作先輩を助けたりしたら、また傷が開いてしまうかもしれないのに、名前先輩は天女様がこうして呼びに来るたび、医務室を出ていく。そのときの名前先輩の後ろ姿が、天女様を追いかけていく伊作先輩のそれに似ていて、すごくすごく不安になってしまう。名前先輩は僕たちを置いていったりはしないってわかっているのに。
 しばらくして忍装束を泥で汚した名前先輩が帰ってきたとき、僕はまた小さな子どもみたいに名前先輩に抱きついた。


「こら、伏木蔵まで汚れてしまうよ」


 困ったように笑う名前先輩の言葉は聞こえないふりをした。










120428

伏ちゃんのキャラがいまいち掴めないけど可愛さだけは全面押しで。