空が少しだけ明るくなってきた。昨夜長屋に戻る途中で落とし穴に落ちたまま、誰にも気付いてもらえず、朝を迎えてしまった。涙で乾燥した頬がひりひりする。藤内、僕がいないことに気付かないで寝ちゃったんだろうな。ひどい。同室なんだから気付いてよ。
 こうして僕が泣いているのに気付いてくれるのは、いつだって名前先輩だった。いつもいつも「数馬、また落ちたの」って穴をのぞき込んで笑う。その顔が大好きで、綾部先輩の落とし穴に落ちるのは嫌だけど、名前先輩が見つけてくれるならいいかな、って思ったり。善法寺先輩でさえも僕のことを忘れるのに、名前先輩は絶対に忘れないでいてくれる。とても優しい方だ。

 そんな名前先輩は、ちょうど一週間前に学園長先生のお使いだと言って学園を出たっきり、まだ帰ってこない。連絡もないらしい。「怪我して帰ってきたら、みんなでお説教しようね」って、伊作先輩が泣きそうな顔して笑っているのを見て、僕は泣きそうになった。左近も伏木蔵も乱太郎もみんな同じ顔していた。藤内が、綾部先輩が元気がなくて、いつも泣きそうな顔をしてるって言ってた。平先輩も田村先輩もタカ丸さんも、みんな元気がない。四年生の先輩方だけじゃなくて、学園のみんなが名前先輩の帰りを待っている。

 名前先輩のことを思い出していたらまた涙が滲んできた。擦れて痛い膝を抱えながら、小さく先輩の名前を呼んでみる。返事は返ってこないとわかっているくせに。膝に顔を埋めて泣いていると頭上で砂を蹴る音がした。顔を上げたら、誰かが穴の中をのぞき込んでいた。見覚えのある影に、僕はまたぶわりと涙がこぼれた。


「数馬、また落ちたの?」
「、名前、先輩、っ!」
「おやおや、泣かないの。ほら、手を貸してごらん」


 影になってその表情は見えないけど、優しい声色に安心してさらに涙が溢れた。差し出された名前先輩の手に泥だらけの手を重ねる。何故かぬちゃりと音を発てたそれに首を傾げる間もなく、身体が浮いて、先輩に抱き留められた。その途端にぐらりと傾いた先輩の身体を必死に支えると、僕はさっきの音の正体に気が付いた。

 血、だ。


「名前先輩!これ…!」
「うん、ごめ、ごめんね、数馬、ごめんな、さい、」


 名前先輩の全体重が僕の身体にかかる。うわごとのように繰り返される謝罪さえもぷつりと止んでしまって、名前を呼んでも返事をしてくれなくて、また涙が溢れる。泥だらけだった僕の忍装束が今は赤黒く染まっている。名前先輩の呼吸が酷く苦しそう。名前先輩の身体には全く力が入っていないから、いつも戯れているときよりも物凄く重く感じる。僕は強く強く涙を拭った。泣いている場合じゃない。今名前先輩を助けられるのは、僕だけなんだ。僕は、僕よりも大きくて重い身体を背中に乗せて、医務室に急いで向かった。


「名前先輩…っ!」


 ねぇ、名前先輩、僕はまだ名前先輩に「おかえり」って、言ってません。僕、「ただいま」って言うときの名前先輩の優しい笑顔が大好きなんです。それを見ないと、名前先輩が帰ってきたって気がしないんです。だから、ね、名前先輩、お願いだから、
 絶対に、死なないでください。








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