猫の声がする。そう思ってその声のする方へ足を向けてみたら、行き着いた先に名前先輩がいた。縁側の柱に寄りかかって、かすかに鼻歌を歌っている。時々名前先輩の声に猫の声が交じって、いとおしそうに笑みを溢す名前先輩に僕は我慢ならなくて駆け寄った。


「おや、こんにちは、伊賀崎」
「こんにちは、名前先輩」


 名前先輩は僕に気付くと、いつもの優しい笑顔を向けてくれた。それに満足していたら、猫が弱々しく鳴いて、名前先輩の視線は奪った。名前先輩がまたあまりにいとおしそうな顔をするから、僕は猫に嫉妬する。ずるい。名前先輩にこんな顔してもらえるなんて、ずるい。
 猫をあやす名前先輩の隣に座り、ぺったりと身体をくっつけた。「伊賀崎?」と首を傾げた名前先輩に、僕は答えない。


「もう、何を拗ねているんだ」
「………」
「ジュンコなら見てないよ。一緒に探そうか」
「………ジュンコは竹谷先輩のところにいます」
「おや、それは珍しいね」


 優しく僕の髪を撫でてくれる名前先輩の手にまた満足して、自然と笑みがこぼれる。名前先輩はふわりと笑って、再び鼻歌を歌い始めた。僕は名前先輩に寄り添って、その鼻歌に耳を傾ける。でたらめに歌っているのかと思っていたけど、どうやらそうではないようだ。同じような曲調が何度か繰り返され、ふとそれが止まる。名前先輩はぼんやりと遠くの空を眺めていて、その横顔は懐かしむような雰囲気をまとっていた。


「名前先輩」
「うん?」
「さっきの歌、何ていうんですか」
「さっきのは、私の故郷の歌でね、母がよく歌ってくれたんだよ」
「名前先輩の、故郷?」
「うん。もう、戻れないのだけど」


 にゃー。まるで名前先輩を慰めるかのように鳴いた猫の頭を、名前先輩は酷く優しく撫でる。名前先輩は今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。

 名前先輩の生い立ちを知っているのは先生方と、名前先生が愛しい同輩と呼ぶあの四人だけ。しかも誰一人として、それを明かそうとしない。名前先輩の故郷の話は聞いたことはないけど、そのことを聞くと名前先輩は必ず、もう故郷には帰れないと口にする。御両親が亡くなったとか、勘当されたとか、家を出たとか、そういう話は一切聞いたことがないのに、土井先生のお世話になっているという。名前先輩は自分のことを語りたがらないから、僕たちは何も知らない。知る術もない。僕は、名前先輩の力になれない。

 名前先輩の膝で寝始めた猫に、名前先輩はまたいとおしそうに笑いかける。僕も猫だったら、名前先輩はそんな顔をしてくれるの?僕が名前先輩の上衣を掴むと、名前先輩は不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの、伊賀崎」
「…あ、の、その猫、名前先輩が、飼うんですか」
「いや、飼わないよ。もともと野良だしね」
「そう、ですか」
「飼いたいの?」
「違います!」
「そんな勢いよく否定しなくても」


 何が面白かったのかよくわからないけど、名前先輩は腹を抱えて笑い始めた。目を覚ました猫が不機嫌そうに鳴いて、名前先輩の膝から降りた。「おや、もう行くのかい」笑いながら猫に声をかけた名前先輩に対して、猫は軽く尾を振って、軽やかに走り去っていった。名前先輩はひとしきり笑った後、僕を見て、また微笑む。その笑顔は先程猫に向けていたものとよく似ているような気がした。


「さて、膝が空いたけど、伊賀崎、座る?」
「す、座りません!」


 顔を真っ赤して立ち上がった僕を見て、また名前先輩が腹を抱えて笑った。







120320

途中で何が書きたかったのかよくわからなくなった孫兵のターン。