その美しい手に、触れてもらいたいと思うのは、わがままだろうか。
 みょうじ先輩は竹谷先輩と同じ五年生で、は組で、生き物好きの、不思議な人。僕はみょうじ先輩が誰かと仲良くしているところを見たことがない。あの竹谷先輩でさえも「みょうじはなあ…」と言葉を濁して、話をしたがらない。生物小屋の中で毒を持つ蝶に囲まれているみょうじ先輩に、「こんにちは」と声をかけると、みょうじ先輩はこちらにぱっと顔を向けて、ふわっ、と微笑んだ。


「ああ、伊賀崎、お邪魔してるよ」
「気を付けてくださいね。その蝶の鱗粉、あまり長く吸っていると、体が痺れてきますから」
「うん、わかってる」


 わかってる、と言いながらも、みょうじ先輩はいとおしそうに目を細めて、蝶たちに手を伸ばす。蝶たちも、まるでみょうじ先輩を花か何かだと思っているかのように、ふわりふわりと指先や肩に留まる。毒のある生き物は一際色鮮やかで、美しい。それがよく似合うみょうじ先輩の姿にため息を漏らすと、みょうじ先輩はふふ、と笑った。みょうじ先輩が動くと、蝶たちが飛び立つ。生物小屋の外に出てきたみょうじ先輩に、蝶たちは決してついてこようとしない。僕たちが世話をするときは、少しの隙間からでもあっという間に逃げていこうとするのに。みょうじ先輩は僕から少し距離をとって、制服をぽんぽんと叩く。僕の方に鱗粉が飛ばないようにしてくれている姿に、胸の奥のほうがきゅうう、と締め付けられた。みょうじ先輩のそばに行って、その群青色の制服をつかむ。


「あ、こら、鱗粉ついちゃう」
「みょうじ先輩、生物委員会に入ってくれませんか」
「だめだめ。俺に生き物の世話なんてできないよ。ほら伊賀崎、手を離して、少し離れて」
「僕は慣れているので大丈夫です」
「この蝶の毒には、人間は慣れないよ」


 みょうじ先輩はぶらぶらと腕を揺らして、困ったように笑った。決して僕の手に触れることはないその手をじっと見つめていると、すっと腕を引かれて、手からみょうじ先輩の制服が逃げていってしまった。僕が近くにいるからか、制服を叩くことをやめたなまえ先輩を見上げる。


「みょうじ先輩が生物委員会に入れるように、竹谷先輩に頼んでみます」
「俺はそういうの向いてないんだってば」
「でもここの生き物たちがみょうじ先輩に懐いています」
「うーん、懐いているっていうのとは違うと思うけど。それに竹谷くんには、あんまり俺の話しないでくれると嬉しいな」
「どうしてですか」
「…伊賀崎は、何も知らないんだね」


 だから俺といてくれるんだろうけど。
 少し悲しそうに、寂しそうに微笑んだみょうじ先輩に、心臓がまたきゅう、と締め付けられる。僕はみょうじ先輩のことを何も知らない。聞いても教えてはくれないし、竹谷先輩も教えてはくれないのに、どうやってみょうじ先輩のことを知ればいいというのだろう。心臓がさっきから締め付けられっぱなしなのと、自分の不甲斐なさが相まって、涙がこみ上げてきそうになった。慌てて下を俯けば、みょうじ先輩が心配そうに僕の名前を呼ぶ。それさえも心臓に悪い。恋だとか、愛だとか、僕はジュンコと、人間以外の生き物にしか感じたことがなかったから、みょうじ先輩にどういう態度を取ればいいのかわからない。ぐすっ、と鼻をすすった音で、僕が泣きそうになっていることに気付いたのか、みょうじ先輩が「えっ!」と声を上げた。


「え、え、泣いてる?もしかして、泣いてるの、伊賀崎」
「う、うう、」
「えええ!ごめんね、まさか泣くなんて思ってなかった、ごめんね、俺のせいだよね、ううう、お、俺どうしたら…」
「…みょうじ先輩、」
「ん、なに?どうした?」
「僕に、触ってください、っ」


 みょうじ先輩があたふたしている今なら、お願いを聞いてくれるんじゃないか、と最低なことを考えて、下を俯いたまま、ぎゅっと目を閉じて吐き出すように言えば、みょうじ先輩はまた「えっ!」と声を上げた。それからしばらく何の返事も返ってこなくて、恐る恐る目を開く。みょうじ先輩の影はぴたりと動きを止めていた。どきどきする心臓の前で手を握り締めて顔を上げる。そこにはあきらかに困惑した顔をして、目線を泳がしているみょうじ先輩がいた。僕が顔を上げているのに気づいて、みょうじ先輩が視線を僕に戻す。いろんな感情が入り混じった複雑な表情をしている。


「あー…、ごめん、それはどうしても、だめなんだ、ごめんね」


 両手を肩の高さに上げて「俺は人には触れない」と言ったときのみょうじ先輩の顔が、思い出せない。




20130925
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -