惚れたら負け



 ハナと番頭に立つたびに、実はハナ目当てでこの見世を贔屓にしている客が一番多いんじゃないかと思う。でれでれと顔を緩ませて自慢話をする男もいれば、うっとりと心酔したような眼差しを向ける女もいる。遊女だった頃のハナを知っている人間もしょっちゅう来ては昔話に花を咲かせている。たくさんの人間を魅了するこの人に恋焦がれている人間は多い。この見世の中だけでも何人いることやら。


「今日は夜になってもあまり涼しくはならないな」
「もうすぐ夏だしな」
「夏になったら何をしようか、八左。川遊びにでも行くか」
「おー、西瓜を川で冷やしたらうまいだろうなあ」
「お、いいな、それ。土井先生たちも呼んだら来てくれるだろうか」
「そりゃあ、ハナに呼ばれたら、仕事ほっぽってでも来るだろ」
「おっと、それは困るな」
「何を今さら」


 ふふ、と微笑むハナは、悪気なんてこれっぽっちもないかのような顔をしている。土井先生が自分に気があることに気づいているくせに。おれ個人としては、ハナは土井先生にさっさと貰われればいいと思う。ハナだって土井先生のことは嫌ってないんだし、2人とも年齢的にちょっとあれな年齢なわけだし。そうは思っていたって、何やら大人は複雑で、お互いが想い合っていたとしても、それですべてがうまくいくわけじゃないらしい。おれには到底わからないことだけどな。
 番頭台の下に隠していた煙管に煙草を詰めながら、客人名簿に目を通すハナの隣で、おれはふああ、と欠伸をもらす。うちはよそと違って格子を構えていないから、太夫たちを道沿いに並べるような客引きはしない。だから宴会が始まってしまえば、客はほとんど来ない。番頭の仕事は、閉店の時間になるまで、ふらっとやってきた客の相手をしたり、太夫たちに追い出された客を見送ったりと、どちらかといえば用心棒のような役割に変わる。あ、帳簿合わせがあるんだった。おれ、計算苦手なんだよなあ。
 しばらくハナと他愛もない話をしていると、ハナは何かを思い出したように「あ、」と声を上げ、煙管の灰を灰皿に落とした。懐から出した紅を唇に引いているハナに「客に挨拶しに行くのか」と声をかければ「ううん、逢い引き」と返ってきた。「えっ!」と声を上げたおれを、ハナはおかしそうに笑う。いや、笑っている場合じゃないだろ。


「相手は?花街の男衆?太夫?それとも客の誰かか?そもそも男?女?どっち?」
「まあまあ、今に来るから、少し落ちつけ」
「しかもここで待ち合わせ?何考えてんだよ、ハナ!兵助たちに見つかったら面倒なことになることくらいわかってるだろ!」
「大丈夫だって。少し酒を飲んでくるだけだ」
「とか言って朝まで帰ってこないとかやめろよな!兵助、ハナがいないと死ぬかもしれない…!」
「何を大げさな」
「ハナはわかってない!あいつは好きとかそういうのの前に、」
「あの、ごめんください」


 おれの声に被せるようにやってきた客は、とても綺麗な顔をした女だった。赤い着物に黒い羽織、金の帯を前に結んだその姿は、いかにも遊女だ。ぴたり、と動きを止めたおれをハナは笑って「あまり見惚れるなよ」とおれの肩を叩いた。「見世まで来てもらって悪いね」とハナが女に微笑みかければ、女は首を横に振り、ハナの腕に細い腕を絡め、「お会いしたかった」と熱っぽく囁いた。それに「わたしもだよ」と微笑むハナの様子は、まるで恋仲のそれだ。見ているこっちが恥ずかしい。外でやってくれ、頼むから。てか、逢い引きの相手って、女かよ。


「八左、後から文次郎も来るから、見世は任せたよ」
「え、でも、」
「今日は変な客は来ていないし、何かあっても文次郎に頼ればだいたい解決するから」
「え、でもでも、」
「みんなには内緒な」


 ゆるり、と微笑んだハナにこくこくと何度も頷く。こんなところ、仙蔵先輩や兵助が見たら、絶対に発狂する。「よろしく頼んだ」とからからと笑って出掛けていった2人の後ろ姿を、おれは混乱したまま見送った。



惚れたら負け





130616

花街の人間には名字というものがないらしいので、ここでも一応全員名前呼びだけどとてつもない違和感は否めない。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -