風呂場を出て、まだ湿った髪もそのままに、伊助と三郎次の制止の声にも耳を貸さず、真っ直ぐにその部屋を訪れると、ハナさんは窓枠に腰掛け、大通りを見下ろしていた。おれに気付いたハナさんは煙管を口から離し、「どうした、兵助」と緩く微笑んだ。俺は何も答えずにハナさんの部屋に足を踏み入れる。必要最低限のものしか置いていない殺風景な部屋には、たくさんの書物や紙が散らばっていた。それを踏まないようにハナさんの目の前まで来れば、ハナさんは優しい顔で「どうした？」と首を傾げた。


「ハナ、さん」
「ん？」
「ハナさん、」
「…兵助、まだ髪が濡れているじゃないか。風邪を引くよ」


　ハナさんは脇に置いていた灰皿に煙管をとん、と打つ。灰が落ちて空になった煙管をその淵に置くと、ハナさんは俺を手招いた。だけど俺の体はちっとも動こうとしない。まだ、強張っている。ふう、と短く息を吐いたハナさんに、びくり、と面白いくらい肩が跳ねた。いやだ、いやだ、嫌わないで。じわじわと目が熱くなって、俺はまた震える声でハナさんの名前を呼んだ。さっきまで好きでも何でもない客の名前を呼んでいた声とは比べ物にならないくらい、甘い響きと熱を持った自分の声が、気持ち悪い。顔が上げられない俺の頬を、ハナさんの手が撫でる。また、肩が跳ねる。するり、と頬を滑り落ちて、顎を掬ったその手が触れたところすべてが熱い。ハナさんの切れ長の目に捕えられて、顔を逸らしたいのに、動けない。


「何かあったか？」
「…なにも、ないです」
「お前が言いたくないのなら無理には聞かないが、心配だよ」


　心配そうな顔をして、俺の顔を覗き込んできたハナさんの言葉に、何も言えずに唇を固く閉じる。するとハナさんはぱっと表情を変えて、俺の髪を両手でぐしゃぐしゃと撫で回した。突然の行動に驚いてぎゅ、と目を閉じれば、軽く俺の頭を撫でて離れていった。そっと目を開けば、窓の障子を閉めたハナさんが灰皿の横に腰をおろして、煙管に煙草を詰めていた。火をつけて息を吹き入れる動作のひとつひとつが綺麗で、俺はその姿に目を奪われる。緩んだ衿からのぞく鎖骨やさらしで潰された胸、着物から伸びる白い足についつい目が奪われる。いくら男勝りで喧嘩っ早くて口が悪くても、ハナさんが女であることに変わりはない。だからこんなにも惹かれるのか。それとも、


「兵助、おいで」


　招くように伸ばされた手を取り、俺は静かにハナさんの隣に腰を下ろした。ゆるりと握られた手を強く握り返す。膝を抱えて座る俺の隣で、ハナさんは煙管を咥えては煙を吐き出した。大通りの賑わいが遥か遠くのもののように感じられて、俺はやっと、小さく息を吐いた。
　客を取ることに不満はない。他に何もない俺は、これ以外にハナさんの役に立つことはできないから。潮江先輩や七松先輩たちのようにハナさんの護身をすることも、善法寺先輩のように医務に携わることも、三郎やタカ丸さんのように着物や化粧を見たてることも、何もできない。だから不満はない。だけど、どうしても怖くて、慣れなくて、気持ちが悪くて、全てが早く終わることしか考えていない。酷いときは恐怖と不安に押し潰されて、胃液を吐くことさえある。そんな俺を見て、ハナさんはいつだって「やめてもいいよ」と言ってくれる。「やめたところで、わたしは兵助を捨てたりしない。兵助にできることは他にもたくさんある」と。だけどそれじゃあ駄目なのだ。それじゃあ、ハナさんを繋ぎ留めておくことができない。いくら止められようと俺は客を取るし、ハナさんの役に立てるなら死んでもかまわない。歪んでる、なんてとっくに知っている。
　握ったままのハナさんの手を引き寄せて、細かな傷がたくさん刻まれた手に唇を当てれば、ハナさんが優しく俺の名前を呼んだ。唇を手に当てたまま視線だけをハナさんに向ければ、ゆるり、と微笑むハナさんに、俺は簡単に囚われた。口をついて出た言葉に、ハナさんが少し目を見開いた。


「ハナさん、もっと、もっと触って、ください。そしたら、大丈夫になるから」
「…兵助、大丈夫になる必要はないよ。無理はしなくていい。嫌なら嫌で、いいんだよ」
「でも、それじゃあ駄目なのだ。ハナさん、お願い、全部、ハナさんで塗りつぶして。全部、ハナさんで上書きして」


　ハナさんの小さな手を自分の胸元に引き寄せる。素肌に触れたかさついた指先に、ぞくり、と、体が熱くなる。もっともっと、いっぱい触ってほしいのに、ハナさんの手はそれ以上動いてくれなくて、俺はぐすりと鼻を啜る。さわって。もっと。ハナさんでいっぱいにしてほしいのだ。ハナさんの空いている手が俺の頬を包んで、親指の腹で何度も何度も頬を撫でてくれる。でも、そんなんじゃあ、全然足りない。溢れ出した涙が俺の頬とハナさんの手を濡らしていく。


「足りない、全然足りないです、ハナさん」


　ハナさんが憐れむように、俺の頭を引き寄せた。半ば強制的にハナさんの肩に顔を埋めるような形になって、煙草独特の匂いが肺を埋めていく。ハナさんの背中に腕を回して距離を詰めれば、思っていた以上に腰も腕も何もかも細くて、今にも折れてしまいそうだった。表情は見えないけど、俺の髪を梳いてくれる手は至極優しい。ハナさんに寄りかかって、ハナさんに匂いで肺を埋めて、ハナさんと体温を分け合っているだけで、こんなにもしあわせだというのに、もっともっと欲しい、と願ってしまう。だって、足りないのだ。このままどろどろと溶けあって、ひとつになってしまいたいくらい、俺はハナさんを、どうしようもなく、　あいしているのだ。


「兵助、もうお眠りよ。わたしはここにいるから」


　ゆるゆると髪を撫でるその指先に促され、俺はゆっくりと瞼を閉じた。

蝋燭を手折って

130410