色褪せた虹彩
「袖、汚れるよ」


 頭上から勘ちゃんの優しい声が落ちてきて、わたしは手を止めて顔を上げた。水の滴るパレットをぱたぱたと振っていた勘ちゃんと目が合う。へにゃ、と笑った勘ちゃんにつられてへにゃ、と笑う。わたしは手に持っていた筆をパレットの上に置いて、思いっきり体を伸ばした。ずっと同じ体勢をしていたせいで、体のあちこちが痛い。わたしの前に広げられた大きな看板を見下ろして、わたしはふう、と息を吐いた。わたしは今、学祭実行委員の勘ちゃんのお手伝いでメインになる看板の絵を描いている。


「おおすごい綺麗」
「ほんとー?ありがとう」
「お前に頼んで正解だった。ありがとね」
「いえいえ。あ、でも今度ごはん奢ってね」


 わたしの隣にしゃがみ込んだ勘ちゃんが「しょうがないなー!」と笑って、わたしの髪を両手でぐしゃぐしゃと撫でた。そのまま落ちてきた勘ちゃんの手が頬を包んで、その指先の冷たさにびっくりして、わたしは「冷たいっ!」と声を上げて、肩をすくめる。勘ちゃんは楽しそうに笑って、わたしの頬や首に手を押し付けてきて体温を奪っていく。勘ちゃんの手を掴んで逃げようとするけど意味はなくて、そうやってしばらくじゃれあって、勘ちゃんの手が少しだけ温まってきたところでやっと解放された。笑い過ぎて息が上手く出来ていなかったわたしは、ゆっくりと呼吸を繰り返す。教室にこもった絵具の匂いがする。ふと視界に入った指先が赤く染まっていた。よく見ればあちこちに絵具がついていて、まるでパレットのようだ。それをぼんやりと眺めていたら、勘ちゃんがわたしの名前を呼んだ。隣を見れば、勘ちゃんが何故か真面目な顔をして、わたしの顔を覗き込んだ。


「なに、勘ちゃん」
「最近疲れてない?眠れてる?」
「え、大丈夫だよ。勘ちゃんって本当に心配性だよね」
「お前が自分に関心なさすぎるんだよ」
「そうかなあ」
「また、三郎と何かあった?」
「んー…、まあ、いつも通りだよ」


 わたしの煮え切らない返事に、勘ちゃんの眉間にきゅっと皺が寄った。わたしはどうしようもなくなって、カラフルに染まった指先に視線を落とした。
 勘ちゃんは心配性だ。勘ちゃんは中学生のときに知り合って、それからずっと仲が良くて、大学生になった今もよく遊びに誘ってくれる。親友だといっても過言ではない、と思う。勘ちゃん曰く、わたしは注意力散漫なんだとか。いつもぼんやりしているから三郎みたいなのに目をつけられるんだ、っていうのは高校のときから勘ちゃんの口癖。勘ちゃんは三郎とも普通に仲がいいのに、三郎が誰と別れて誰と付き合ったとか、そういうのに厳しい。常識を考えろ、ってよく言われてた。勘ちゃんはみんなのお兄ちゃんみたいな存在だ。


「お前がそう言うときはだいたい何かあったときなんだよなあ」
「たいしたことないよ」
「お前にとってはたいしたことないかもしれないけど、おれは心配なんだよ。三郎に傷つけられるお前はもう見たくない」
「そんな大げさな、」
「お前はさ、三郎のこと今も好きなの?」


 勘ちゃんの質問に口を閉ざす。勘ちゃんはわたしの頭をくしゃ、と一撫でして教室を出ていってしまった。目頭が熱くなって、このまま下を向いていたら涙がこぼれそうで、わたしは窓の向こう側に視線を移した。
 好きか嫌いか、でいえば、好きだ。でもそれは勘ちゃんたちに対する好きと違うのか、と言われれば、わからないと答えるしかない。だからどうしたらいいのかわからない。わたしは三郎がちゃんと笑えて、しあわせであるなら、三郎を幸せにするのがわたしじゃなくてもいいと思う。これを恋だと、愛だと呼べるのだろうか。本当は三郎はわたしなんてこれっぽっちも好きじゃなくて、ただ都合のいいように利用されていたとしても、それはそれは仕方ないと思う。好き、という気持ちだけで動けるような恋愛は、わたしにはもうできない。
 勘ちゃんが出ていって、他の教室から聞こえる声から遮断されたこの教室に、からから、とドアを開ける音がする。そこには勘ちゃんがいて、何も言わずにわたしのところまで歩いてくる。「ん、」と目の前に差し出されたのはカフェオレで、わたしはお礼をいって受け取る。缶から伝わる熱がじんわりと溶けていく。勘ちゃんはわたしの隣に座って、「おれはね、」と話し出した。


「自分がしあわせなら、とりあえずはそれでいいって思う人間だから、お前みたいな考え方はちっとも理解できないし、理解する気もない。だから自分がしあわせになれる道を他人に譲って、全然違う道に行こうとするお前を見てると、心配以上に苛々する」
「……うん」
「だからそろそろお前がしあわせになってくれないと、勢いに任せて三郎のことボコボコにしちゃうかもしれない」
「ええ、勘ちゃんが?」
「うん。おれはやるよ。だから、お前自身がどうしたいのか、早く気づけ」


 そう言って勘ちゃんがまたわたしの頭を撫でる。俯いた瞬間、さっき治まったはずの熱がぶり返して、涙が溢れ出した。背中をぽんぽんと撫でてくれる勘ちゃんの手が優しくて、わたしは今まで素直に泣けなかった分を全部出し切るみたいに、外がすっかり暗くなるまで泣き続けた。







130119〜130508


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bkm
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