愛してたのは確かだった
 雨が降っている。ついこの間までの暑さがうそのように寒くて、暗くて、どんよりと雲が低い日は、理由もなく、死にたくなる。


「三郎?」


 降ってきたのは冷たい雨ではなく、あたたかい優しい声。閉じていた目をゆっくりと開いて、その声が降ってきた方を見上げれば、そこには呆れた顔をしたなまえがいた。「またこんなところでしゃがみ込んで、風邪引くよ」と言いながら、なまえが私の腕を引く。膝を抱えていた私はその手にすくわれるように、のろのろと立ち上がって、するりと離れていこうとした小さな手を捕まえる。あたたかいそれに安心していれば、反対の小さな手が私の髪をふわりと撫でた。この優しさに触れていれば、生きていけるような気になる。だから離れられない。迷惑していることに気づいていても、なお。


「とりあえず上がって。少し散らかっているけど」
「…ごめん」
「ううん。いいの」


 そう言って私の手を引いたまま、私が今までしゃがみ込んでいた場所のすぐ隣のドアの鍵を開ける。散らかっているなんて嘘だ。この部屋はいつも綺麗で、でも確かにそこに人が存在していることが分かる程度には散らかっている。いつものようにソファーに座った私の手から離れようとするその手を追いかけてキッチンに入れば、「どこにも行かないから」と困ったように笑うなまえがいて、そのひとつひとつに私は安心する。言われた通りにソファーで待っていれば、コーヒーの良い香りがしてきた。そしてマグカップをふたつ持ってきたなまえの姿をぼんやりと眺めて、差し出されたマグカップを受け取る。2人分の人の重さに従って沈みこんだソファーには、私となまえ、二人きり。なまえの手には、私の苦いブラックコーヒーとは違って、砂糖とミルクがたくさん入った甘いカフェオレ。もともと甘党のなまえが私のためだけに買っているコーヒーがじんわりと冷えた体にしみわたる。わざと間をあけて座っているのだろう。つめることができないその距離が、私となまえのけじめ。


「今日、彼女さんは?」
「…家にいる、と思う」
「じゃあ、落ち着いたら自分で帰れるね」
「………」
「帰れるね、三郎」


 言い聞かせるように繰り返したその言葉に、私はただ俯くだけで、返事はしなかった。そしたら隣からは小さなため息が聞こえてきて、私の中の薄暗い部分がぶわっと増幅する。内側から蝕んでいく感覚が私を包んでいく。なあ、今、そんなこと言うなよ。
 ぼんやりとマグカップを眺めているなまえの横顔を眺めて、その細い肩を引く。大きく見開いた目と目が合って、私はぐっと体を乗り出す。唇が重なろうとしたその隙間を埋めたのは、ちゅ、と音をたてて触れたのは、柔らかくてあたたかい小さな手。至近距離で交わる視線に心臓が跳ねる。顔を押し返す腕を掴んで、その細さにびっくりした。


「三郎、やめて」
「いやだ」
「こういうことするなら、今すぐ出ていって」
「どうして」
「わたしと三郎は、こういうことする関係じゃない」
「昔は、」
「昔は昔だと何度言えばわかるの」


 冷たい声色と、蔑むような視線。これ以上近づくようなら、きっとなまえは容赦なく甘い甘いカフェオレをかけてくるだろう。昔から、雰囲気には流れてくれなかった。仕方なく小さな手にもう一度唇を押し当てて、私は体を起こす。警戒気味に体を強張らせているなまえの手に指を絡め、私はそれを自分の頬に当てる。まだ少し冷たい指先に溶けるなまえの体温に、私は小さく息を吐く。私はこれが欲しいだけなのに。生きていると伝えてくれる、この優しい体温が、欲しいだけなのに。


「三郎、今のわたしたちの間には友人以上の関係はないの。だから本当はこうして二人きりでいることもおかしいのだけど、三郎がわたしで助かるって、しにたいって気持ちを抑えられるって言うから、会ってるだけなの。それに三郎には今付き合っている人がいるんだから、その人を大切にしてよ」
「じゃあ、なまえがそう言うなら別れるから、そんなこと言わないでくれ」
「わたしを理由にして、自分の行動を正当化しないで」


 聞きたくない、とでも言いたげな顔をして、そっと目を伏せたなまえの小さな手を私は離せなかった。これを離したら、もう二度と縋りつけないような気がしたのだ。
 交わらない、交わらない。私たちの気持ちはもう二度と交わることはない。大切さは失ってからわかるなんて、そんな使い古された言葉が、今の私にざまあみろと舌を出す。時間は戻らない。一度この手で壊した感情も、元通りに戻ることはない。もし数年前の自分に会うことができたのなら、こいつを傷つけた自分を殴ってやるのに。絶対に傷つけないと誓うのに。そしたら今でも、この小さな手を引きよせて、抱き締めることができていたかもしれないのに。
 そう思いながら、なまえの優しさに縋って、私は泣くのだ。









120925〜121106


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