ぼくは昔から運がない。ここ2、3日いいことが起きていたから、少しだけ忘れていた。今日になってそれは見事に発揮されて、ぼくは登校中に横をすり抜けていった人にぶつかって転んで、鞄を落として、それがちょうど側溝に落ちてしまった。おかげで教科書はびしょびしょ。ぼくまで側溝に落ちなかっただけ、まだましだと思う。ぼくにぶつかった人はぼくに気づかずに行っちゃうし、教科書を借りるような友達もいないし、どうしよう。となっていたぼくは、名字くんの存在を思い出した。つい最近できた友達の顔を思い浮かべながら、ぼくは人の多い廊下を人にぶつからないように小さくなりながら進んでいく。しかし、どの教室をのぞいても、名字くんはいない。あの、くりっとした大きな目をした、日焼けした名字くんを見つけるのなんて簡単だと思っていたぼくは、名字くんが見つらないことに焦っていた。まだ登校時間には余裕があるから、来ていないだけかな。1組の教室をのぞきながら、ぼくは小さくため息を吐く。今日1日、どうしよう。


「誰か探してるのか」
「、っ!」


 突然かけられた声に、ぼくの心臓は跳ねる。ついでに肩まで揺らしてしまった。どきどきと高鳴っている心臓を押さえつつ、おそるおそる後ろを振り返れば、そこにはぼくよりもすらりと背の高い、伊賀崎孫兵がいた。吊り目がちな目に、白い肌、人を寄せ付けないような雰囲気をまとう、小学校の頃に仲の良かった、孫兵。クラスが離れてしまったからはほとんど関わりがなくなっていた。もともと他人に興味が薄くて、蛇や蜘蛛といった爬虫類が好きな孫兵は、それでも顔が綺麗だから、何かと女の子の話題に上がる。ほら、女の子って声が大きいから、聞こえちゃうんだよ。ぼくは盗み聞きしたわけじゃない。
 久しぶりに会う友達を前にしておろおろしていると、孫兵は首を傾げた。他人に興味
が薄い孫兵のことだ、きっとぼくのことなんて覚えていないし、きっと今も気分で声をかけたんだろうから、この幸運を利用して、教科書を貸してもらおう!


「あ、あの、今日、学校に来る途中で鞄を側溝に落としちゃって、教科書が濡れて読めない状態だから、とりあえず1限の数学の教科書を貸してほしいんだけど、えと、」
「ああ、わかった。待ってて」


 すんなり返って来た回答に、ぼくはぽかんと口を開けてしまった。いつの間にかワイシャツを握り締めていた手からも力が抜け、教室の中に入っていく孫兵の背中を見つめる。あれ、孫兵ってこんなに優しかったっけ。小学校の頃は結構辛らつな言葉を投げつけられていたような気がするけど。孫兵も、誰にも声をかけられないんだ。それでもあんなに凛として、格好良い。ざわざわと騒がしいクラスの雰囲気に、ぼくは居心地の悪さを感じて、孫兵から視線を落とし、自分の上靴を見つめる。早く来てくれないだろうか、と思いながら、廊下の壁に寄りかかっていたら、「ほら、」という孫兵の声がして、ぼくは弾かれたように顔を上げた。


「あ、ありがとう!」
「ん」
「え、えと、今日数学の授業ある?」
「2限にあるけど、なくてもいいから、好きなときに返しに来て」
「え!じゃ、じゃあ授業が終わったらすぐに返しに来るね!」
「そう言って、数馬は返しに来れたことないだろ。無理しなくていいよ」


 自然に孫兵の口からこぼれ出た自分の名前に、ぼくは再びぽかんと口を開けた。孫兵はそんなぼくに向かって「数馬?」と声をかける。じわじわと溢れるあたたかい感情に、涙がこみ上げてきそうになって、ぼくは唇をかみしめた。孫兵は特に気にした様子もなく、ちらりと教室の時計を見た。そしてもう一度ぼくに視線を向ける。


「数馬、鞄ごと濡れたのなら、他の教科書もいるよね。ぼく、ほとんど教室にいるから、いつでも借りに、」
「ま、孫兵、」
「ん、なに?」
「ぼ、ぼくのこと、覚えてくれてたの?」


 ぼくの声は少し震えていた。孫兵の顔を見るのはさすがに怖くて、ぼくの視線はまた上靴の緑に戻る。孫兵が貸してくれた教科書をぎゅっ、と握って、ぼくは孫兵の返事を待った。期待、してもいいよね。だって、名前を呼んでくれた。ぼくの不運を覚えていてくれた。ねえ、期待しても、いいんだよね?


「中学でクラスが分かれたからって、友達を忘れるほど馬鹿じゃないよ」


 名字くん、友達を遠ざけていたのは、ぼくだったみたいだ。








120913
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