今朝までは晴れていたのに、お昼が近づくにつれて空が暗くなり、土砂降りの雨が降ってきた。雷もひどい。がやがやと騒がしい教室の中で、ぼくはひとりぼんやりと空を眺めて、名字くんのことを考えていた。この雨じゃあ、屋上でご飯を食べるのは無理だろう。でも、どうせこの教室に居場所はないし、どこか場所を探さなきゃなあ。そう思っていたのに、


「わはは、調子乗った」
「…呆れて言葉もでないよ」


 屋上に続く階段を登り切ったぼくが最初に見たものは、泥水で汚れた制服で悪戯っぽく笑う名字だった。さっき降っていた雨はものの数分で止んで、今は青空も見えている。どうやら、この名字くんは屋上から虹が見えたことにテンションが上がり、勢いよく飛び出したところで水たまりに片足を突っ込んだらしい。無邪気にもほどがある。びしゃびしゃの上靴と靴下を日の当たるところに干して、制服の裾を少しまくった名字くんは、ぼくを手招いて、空を指差した。


「三反田、まだ虹消えてないよ」
「…本当だ」
「綺麗だなー」
「…うん」


 楽しそうに笑う名字くんが眩しくて、ぼくは目を細めた。フェンスを掴む手がわずかに震えている。2日前にこのフェンスを越えて、屋上の淵に立ったときの感情が浮かんで、ずしりと体が重くなる。足元に落ちた視線にひび割れた屋上のコンクリートが映り込む。空は、名字くんに似ている。遠くまで澄んでいて、どこまでも綺麗なその様子が、似ている。きっと名字くんは泣いていても変わらず眩しいのだろう。彼ともっよ早く出会えていたら、そう惜しむのは仕方のないことだと思う。ぼくは彼に救われている。かしゃん、と揺れたフェンスの音に、落ちていた視線を上げれば、名字くんがぼくの方をじっと見つめていた。丸い目がさらに丸くなっている。


「な、なに?」
「いやあ、べつにい」
「じゃあなんでこっち見てたの?」
「べっつにい。よーいしょっと!」
「ちょ、名字くんっ!」


 突然おもむろにフェンスを越えた名字くんに、声が裏返る。掴もうとした腕はするりとすり抜けていって、名字くんは出会ったときのぼくと同じように、屋上の淵に立った。精一杯手を伸ばしても、ちびのぼくじゃあぎりぎり届かない。名字くんはこっちを振り向いて、ぎゅっと眉間にしわを寄せて笑う。どことなく悲しそうなその表情に、ぼくはどきっとして、動きを止めてしまった。名字くんの髪が下から吹き上げる風に揺れる。体が、動かない。まるで何かに足を掴まれているみたいに。


「三反田、お前はまだこの世界から消えたいと思ってる?」
「思って、ない」
「嘘。思ってるだろ。お前の目、死んでるもん」
「…そんなこと言われたって、ぼくの世界は何も変わらないから、気持ちだって変わらないよ。名字くんにはわかるわけないでしょ」
「わかるわけないじゃん。ここでわかるよって言われても気持ち悪いだろーが。漫画とかテレビみたいに、自分の身を投げ出してでも他人を救いたいなんて優しい人間、数えるくらいしかいないんだよ。お前なら知ってるだろ?」
「………」
「大人なんて、手を広げて待ってくれてはいても、引き寄せてくれはしないくせに、大人を頼れって、そればっかり。怖い大人も優しい大人も、くそみたいな大人も、おれたちから見れば全部同じ大人だってことを大人たちはわかってない。自分が勇気を出して頑張って頼った大人が裏切ったら、もう大人は信じられないって思ってしまう。それが子どもなのに、子どもに過度な期待をしているのは大人のほうだ。子どもは恐怖や不安にぶち当たるとまずさきに自己防衛に走って、その場所から動けなくなる。なんで忘れてしまったんだろう。大人だって、子どもだったくせに」


 淡々と語られる名字くんの言葉に、ぼくはぐっとフェンスを掴む手に力を込めた。名字くんは空を見上げたまま、両手をポケットに突っ込んだ。相変わらず屋上の淵から動かない。風は止まない。名字くんは確かにここにいるはずなのに、今にもどこかへ、それこそこの青い空に消えていってしまいそうで、ぼくはもう一度名字くんに手を伸ばす。がしゃ、とフェンスが揺れた音に名字くんが振り向いて、ふわりと笑った。くるりと体の向きを変えた名字くんは、両手を広げた。まるで、飛んでいるようだった。


「三反田、もしおれが今ここから飛び降りて死んだらどう思う?悲しい?」
「かな、しいよ。悲しいし、きっと名字くんのこと恨む。死ぬまで許さない」
「おれも、同じだよ、三反田。おれはお前が死んだら悲しいし、きっと恨む。少なくとも、お前が死んだら悲しむ奴がここにひとりいることを知ってれば、死ぬの躊躇うようになるだろ」
「…そう、だね」
「な?裏切るなよ、おれを」
「うん。…名字くんもね」
「なんでだよ」


 ばーか、と笑って、名字くんがこちらの世界に戻ってきた。名字くんが裸足でぺたぺたと歩く音を聞きながら、ぼくは笑った。









120913
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -