学園という箱庭は、酷く優しい色をしている。任務直後の私は、この優しい箱庭にうまく順応できなくて、一度感覚が死んでしまう。何も、感じなくなる。だから、


「…っは、きはち、ろ、」
「名前、おかえり」


 部屋にいた喜八郎の気配に気づかなくて、戸を開けた途端にした白梅の香りに眩暈がしたし、どんっ、とぶつかった感覚に一瞬意識が飛んだ気がした。ふわりと嬉しそうに笑う喜八郎に、笑い返すこともできない。ばくばくと脈打つ心の蔵が、痛い。うまく呼吸ができない。苦しい。私の首筋に唇を寄せていた喜八郎が不思議そうに見上げる。その瞳に映る自分の顔が酷く怯えていた。まだ、任務の時の感覚が消えない。
 喜八郎の肩を軽く押しやる手が震えている。一瞬ぶれた視界に赤が映って、びくりと肩を揺らしてしまった。いやだ、嫌だ。苦しい。怖い。見たくない。ぎゅっと閉じた瞼の上に熱いものが触れて、ゆっくりと開けば、心配そうに私の目を覗き込む喜八郎と目が合った。まだ、呼吸はうまくできない。


「名前、どうしたの、どこか痛いの、泣きそうな顔してる、名前、名前、僕の名前を呼んで、ただいまって笑って」
「きは、ち、ろう、喜八郎、おねがい、」
「…名前?」
「私を、ひとりにしてくれ」


 死に際の声が蘇り、私の聴覚を奪う。切った肉の感触がまだ手に残っている。血の匂いと、肉が焼ける匂いが混じる。いくら人の命を奪っても、慣れないものは慣れない。慣れたくもない。この感覚をなくすくらいなら、死んだ方がましだ。そうして、誰かの命を奪った事実が私をじわじわと殺していく感覚に溺れる。私が悔いていなくては、任務成功として、人の命を奪った事実が正当化されてしまうのだ。依頼主は、自分の手を汚すことをしらないから。日が昇ればこの感覚を奥底に押しやって、いつものように笑うから、今は、救いなんていらない。
 喜八郎の身体を押し返そうとした腕は、いとも簡単に掴まれ、それごと抱きしめられる。私を包むあたたかさが、切られて落ちてきた人間のそれと重なる。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。静かに涙が伝う。口は、私の意思に反して言葉を紡ぐ。


「喜八郎、ごめん、気持ち悪いんだ、お前の体温が、重なるんだよ、私が殺した人間と、お前を失ったみたいで、いやだ、嫌なんだ、喜八郎、苦しいよ、息が、できない、喜八郎がいないと、生きていけない、おねがいだ、ひとりにして、触れないで、っ、私は、汚い」


 止まらない言葉が、ふと消える。喜八郎の唇が自分のそれと重なり、言葉を飲み込んでいった。酸素を奪うように絡まる熱い舌に翻弄されて、気づけば自ら舌を絡めていた。名残惜しそうに唾液がぷつりと切れる。苦しい。視界が歪む。珍しく怒っている様子の喜八郎に腕を引かれ、部屋の中に引き込まれる。戸がぴたりと閉められ、部屋の中は蝋燭の明かりがひとつのみ。閉めた戸に押しつけられて、再び唇が重なる。衿を掴み上げられているせいで、息がつまる。酸素が足りなくて、頭がくらくらする。好き勝手やっている喜八郎の肩を弱弱しく押せば、唇はゆっくりと離れていった。首元を舐められる感覚に身をよじる。ぞくり、快楽が押し寄せる。


「っ、きはちろ、」
「ねえ、名前、僕が好き?」
「ん、すき、」
「僕も、だいすき。だから、今すぐ抱いて」
「え、?」
「僕が生きてるって、名前の全部で確かめて」


 そしたら、名前の不安は消えるでしょ?
 そう言って涙をこぼした喜八郎の身体を強く抱き寄せた。私の首に腕を回して小さく嗚咽を漏らす喜八郎がいとおしくて仕方ない。自然と呼吸ができるようになって、再び白梅の香りに包まれる。嗚呼、なんて、優しい箱庭なのだろう。私は喜八郎の目尻に舌を這わせ、涙を掬う。顔を上げた喜八郎に薄く笑顔を見せれば、喜八郎も安心したように息を吐いた。


「喜八郎、ありがとう。もう、大丈夫」
「…抱いてくれないの」
「…もうすぐ夜が明けるよ」
「名前の意気地無し、ばか、もう知らない」


 拗ねたように唇を尖らせて私の肩に顔を埋めた喜八郎に眉を下げる。こめかみに唇を落とし、喜八郎の身体をさらに抱き寄せた。肩を甘噛みする喜八郎の髪を撫で、耳元で愛を囁いた。今はこれで我慢しておくれ。
 今、喜八郎を組み敷いてしまったら、泣かれてもやめてあげられそうにないんだもの。








120506

前半のシリアス部分で何度か心折れた。






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -