※捏造大学生設定
小さい頃気に入っている絵本があった。
心優しい女の子が困っているおばあさんを助け、お礼にと貰ったリボンのついた靴のかかとを鳴らすと、たちまち大好きな人の元へ飛んで行けるという話。
幼心に、オレはその物語にとても憧れを持った。
それはもう、ずいぶん昔の話なのだけれど。
ポケットに入れたままの携帯が着信を告げる。
確認するまでもなく、相手は誰だか分かった。
この着信音に設定しているのは一人しかいないのだ。
「もしもし」
『あっヒロト?今電話大丈夫?』
三コール以内に電話を取ると、緑川のよく通る声が聞こえた。
この声を聞くと、いつも自然と頬が緩んでしまう。
「大丈夫、今ちょうど家に帰るところだったから。緑川はまだバイト?」
『ううん、今日はバイト休みでさ。友達と飲みに行って、オレもこれから家に帰るとこ』
「そうなんだ」
大学生になって、オレたち二人は離れて生活することになった。
お互い進学した学校が遠く、おひさま園からでは通うのが難しくなってしまったのだ。
イナズマジャパンとしてサッカーしていた頃に比べれば、今の二人はそんなに遠く離れた距離ではない。
時間はかかるけれど、電車一本で会いに行くことができる距離だ。
それでも、恋人同士にはそれはあまりにも大きな障害だった。
好きな時に顔も見れないし、触れることも、目を見て話すことだってできない。
お互い大学もバイトもあるし、そう頻繁に会いに行くことは難しい。
それはすごく寂しいけど、二人ともやりたいことがあって大学に通っているのだから、簡単に寂しいだなんて言えなかった。
そうしてなんとか過ごしてきて、大学生活ももう四年目になる。
それからしばらく、二人の間にいつもの他愛ない話が続いた。
近くに新しいコンビニができたんだけどさ。
大学のレポートが大変で。
バイトでよく来るお客さんが。
この前急に晴矢と風介が家に押し掛けて来て。
今日の緑川は、いつもより少しおしゃべりだった。
オレは緑川の話を聞くのが好きだから、時々質問を返したり、うんとか、へえとか、ずっと相槌を打って聞いていた。
そして、ふと会話が途切れた時、緑川がぽつりと呟いた。
『ごめん、なんかオレばっかりしゃべっちゃって』
それがあまりにも緑川らしくない様子だったので、オレはすぐさま言い返した。
「そんなの、オレが緑川の話聞くのが好きなんだからいいんだよ」
言うと、緑川は小さな声で『そっか、ありがとう』と答えた。
ひとまずその言葉にほっとする。
今日の緑川は、いつもと少し様子が違う気がした。
『…ヒロトさ、今月は会えそうな日ある?』
ぼそりと尋ねた緑川の声は、とても弱々しかった。
「今月か…。バイトの方が忙しくてちょっと難しいかもしれない」
『…そっか、』
そこで少し沈黙が落ちる。
電話の向こうで、すん、と鼻を啜るのが聞こえた。
「…え、緑川」
もしかして泣いてる?
尋ねると、緑川は確かに濡れた声で答えた。
『何でもないんだ、ちょっと酔ってるだけ』
酔っている、と言われればそれは納得できた。
緑川はたまに、飲むと情緒不安定になる時があるから。
けれどそれにしたって、今泣き出すにはあまりに唐突すぎたし、こんなことは今まで一度もなかった。
『…ヒロト、オレたちってどうして離ればなれになっちゃうのかなあ』
「…え、」
『イナズマジャパンでサッカーしてた時も、大学に入ってからも。オレたち離れてる方が多いだろ』
「……」
足元で踏んだ砂利がわずかに音をたてた。
昔から大事に履いている革靴が目に入り、ふと昔気に入っていた絵本のことを思い出す。
今履いてる靴はおばあさんにもらった物でも、リボンのついた物でもない。
この靴のかかとを鳴らしたって、緑川のところへ飛んでいくことは出来ない。
『何で黙るんだよ』
ちょっと怒った風に緑川は言う。
まだ声は濡れている。
会いたい。
緑川に今すぐ会いたい。
抱き締めてキスだってしたい。
だけどそんなことを今言ったって、余計に寂しさが募る気がした。
「…緑川、」
こんな時に気のきいた言葉が出てこなかった。
もうすぐ大学も卒業だ。
卒業したら、オレは一度おひさま園に戻るつもりでいる。
父さんの会社を継ぐために。
だから、そうしたら。
耳元でまた緑川が鼻を啜るのが聞こえた。
『ヒロト、もう離れるのは嫌だ…』
それが、緑川の四年間溜めていた気持ちなのだろうと思った。
だからオレもそれに答えるべく、一度大きく深呼吸をして、緑川の言葉に今までの気持ちをぶつけた。
「オレだって離れるのは嫌だ。…卒業したら、一緒に暮らそう」
『え、』
緑川はもはや鼻声だった。
ひどく驚いているのが電話ごしに感じ取れる。
『……』
「…何で黙るんだい」
今度はオレがそう言う番だった。
すると、くすくすと笑う声が聞こえる。
『…嬉しくて、何て言ったらいいか分かんなかった』
可笑しそうに言う緑川は、もう泣いていないようだった。
今すぐ愛する人のところへ飛んでいくことなんて、オレには出来ない。
おばあさんにもらった魔法の靴なんて現実にはないのだから。
だけどもうすぐ春が来る。
始まりの春が。
そうしたら、履きなれたこの革靴と、緑川はお気に入りのスニーカーを履いて、二人してかかとを鳴らしてみよう。
きっと何も起きない。
だけど、その時隣で緑川が笑ってくれるだろうから、それだけで魔法じゃないか。
膨らむ期待を胸に、オレは携帯を握り直してまた笑ったのだった。
かかと鳴らして
back