よしんば自我が崩壊しても、彼が助けてくれるだろうと妙な自信があった。それは優しさというものよりは惰性であり、日常に溶け込む空気のように滑らかな救済だった。
その日は刻々と迫っていた。明かり一つない暗闇に怯えながら時間だけが過ぎていく。窓から差し込む街灯だけが小さな部屋を照らし尽くす。底知れぬ恐怖と絶望が心を蝕んでいった。じわじわ。どくどく。活発な脳とは裏腹にいやにしんみりと脈拍が鳴る。悲しみを表す泪など、とうに枯れ切っていた。目を閉じれば彼が居た。優しく、暖かい手が、きっと大丈夫だよと私を包み込み、その一言だけで救われるはずが、言葉は塵になって消えた。
……あ。また、パトカーの音。
息も絶え絶えに窓を見る。夜景なんてない。ただ遠くから誰かを助けようと稼働する救急車の音が響き渡る。二時間前も、3時間前も、昨日も、一昨日も、パトカーのサイレンは鳴り止まない。ただひたすら、私を見過ごして遠くへと走り去っていく。
ここなのに。助けて欲しいのは、私なのに。
呼吸が音を立てて大きく叫ぶ。ずるずる、這いずるようにベッドに向かう。ひんやりと温度のない布団から知らない匂いがすると思い込む。独りじゃないことを実感するために。
こんな夜を何回繰り返したのだろう。四月に一人暮らしを初めてから、季節は秋になっていた。もうむりだ。自制心が悲鳴をあげている。堪らなく滑稽なのには気付いていた。けれど彼を待ちわびた。
実の所彼は優しくなどなかった。笑いかけられることも滅多になく、私は驕った態度の彼をただ見つめてすごいと囃し立てるばかり。別段それで彼が喜ぶわけもなかった。私が彼に好かれるために笑っているのを知っているようだった。それでいて私と関わっているから大層変人なのだと思ってしまう。馬鹿にしているのだろうか。それすらも分からないが、そういう人なのだ。
ただし彼は実直だ。どんなに嘘に塗れていても、あの時分かり合っていなかったとしても、今を生きている。私は恐ろしいくらい幻想を抱いている。その事を理解しているから滑稽なのだ。立ち直れないほど精神が病に満ちていれば、本当に幻想となり、彼を見限れた。中途半端な知り合い関係がまた依存性を高めたのだ。きっと私だけが苛まれていて、こうも泣き疲れている。
深夜は零時を回る頃。どんどんどん、と玄関のドアを叩く音が部屋の中に響き渡る。返事をする気力なんてとうにない。今度は乱暴に鍵を開ける音がする。怖い。でも心拍は不思議と落ち着いていた。
「ねえ、生きてる?」
こんばんはでも、ただいまでもない。第一に安否を確認するのは男の声だ。彼だろうか。それすらも分からない、否、分かりたくもない。こちらに向かってくる足音は聞き覚えがあったような気もする。それは私が求めているもののはずなのに、分かりたくもないなんて矛盾している。身を隠すように小さく丸まって恐怖を凌ぐけれど、泪は枯れている。
私の前に現れたのはやはり彼だった。仕事終わりのままのようで、いつものように着古したスーツ姿で私を見下ろしていた。左手には車と自宅の鍵が収まっている。彼は乱暴にドアを開けたかと思いきや、私を見て案外冷静だった。暗闇に馴染むような沈んだ声色は私を責めるものでも、殺すものでもなかった。
そういえばパトカーが過ぎ去ったというのに、彼は何故ここにいるのだろうか。職務放棄をしてまで心配して来てくれたのだろうか。否、そう願いたかっただけかもしれない。最早、遠くにパトカーのサイレンなんて響いていない。幻聴か。末期だった。
「なにしてんの」
「……耐えてた」
「電気ぐらいつけたら」
「電気、点かないよ」
「はあ?」
「……あだちさん、たすけて」
暗闇の中で私を見下ろす男がいる。私は彼を知っている。なにもかも。嫌々ながら仕事をする姿も、眠るためだけに家に帰ることも、食事を疎かにすることも、あれも、それもだ。それなのに、優しい彼だけは知ることがなかった。無慈悲で、底知れない無情の塊だ。
冷たく全く愛情の欠片もない視線はなんの為に向けられたものだろうか。優しくもなく、強くもなく、大人でもなく、子供でもなかった。眉間に寄る皺は見飽きた。最も、笑ってくれたことなどなかった。弱音なんて言う相手でもなかったし、慰めてくれるような人間でもなかった。それが今となってはこんなにも情けない毎日が続いていた。私はなんの為に彼の近くにいたのか、自分のことさえも理解出来ていない。
「はあ、もうさ、めんどいなあ」
「なんで」
「なんでって、男からしたらこういうのめんどくさいよ」
「たすけてくれないと、死んじゃう」
「それはもっとめんどくさい」
突き放すのだ、いつも。朝になったらなんでもないことなのに、夜には眩暈が止まらない。彼にはそもそも優しさがないから、求めても無駄だろうか。今更気付くなんて阿呆らしい。
彼は私の近くにしゃがみ、布団にもたれた頭を掴みあげると静かに殺害予告をしてくるのだ。じゃあ殺してあげようか、と。そうか。彼に殺されれば全て丸く収まるのか。思わず笑みが溢れる。この悪夢は終焉を迎えている。私は彼の何かを求めていたけれど、彼は私に何かを求めていなかった。けれどここで初めてお互いの需要と供給が完成されたと思った。私はいつか殺されるために生きていたのか。彼は、私を殺せるのだろうか。
「私は、この世で生きる価値がないって」
「誰かが言ったの?」
「……そう」
「誰が?」
他でもない私が。夜になると押し寄せる不安が。囁かれて、絶望と恐怖に依存した私が、そう言われたのは紛れもなく事実だった。喩えそれが、幻聴だったとしても。
この世で生き抜くことは到底簡単なことではなかったのだ。子供らしく見逃されるものは少なく、大人らしく凛と生きることは難題だった。彼のようにのらりくらりと生きることは技術のいることだ。自分にある程度の見切りをつけて、周りからの評価なんてお構いなしで、自分の人生を生きている。悪でも、善でも、中立でも、なり代われる。
彼の近くにいれば自分も同じような道を歩けるのだと盲信していた。けれど歩幅が違うのだ。感性と実感はどう転がっても彼のものを貰うことなどできなかった。
「じゃあそいつも殺してあげるよ」
耳元で、低い声で、本当に殺すように囁く。いつも聞こえる不安の幻聴のような声だった。
自分の仕事をまるで分かっていないみたいに、当たり前のように彼は言う。それは私を殺すと言った相手が憎いからではないだろう。きっと彼にとっては、私は殺されてもいい人間だからだ。
私はいつでも彼に殺される。けれど、何回刺されても死ねないだろう。銃で心臓を撃ち抜かれても、腹を引き裂かれても、しぶとく生き続けるだろう。その確信だけが確かにあって、恐怖の連続だ。
彼は私を撫でたりしなかった。甘やかしたり、私を生かそうとする言葉もかけなかった。それが本心だ。そして本望だ。どうせと言うことで、自分を最下位に置いて絶望し続けられた。
私は、助けて欲しいのに、何故こんなことを考えているのだろうか。
「私、あだちさんと生きたい」
「……生意気なこと言うね、ほんと。めんどくさいよ。つまんないし、子供でさ」
「たすけてよ、おねがい」
「お願い、かあ。堪んないよ、ほんと」
困っているような、呆れているような、どちらとも取れるような顔つきで私を見ていた。
媚へつらっても彼の心を射止めることなど出来ないのだ。次第に虚無感が迫ってくる。だけれども、震えることすらないこの手と声が、私の生きる価値を押し潰していた。
この場に存在する優しさは、無慈悲で、狡猾で、温かみのないものだった。つまらない文句を言うほど悠長だった。彼の目は、いつまでも冷たかった。
私の髪の毛を掴む彼の手が暖かいのは、心が冷えているからだ。上辺の温もりを求めて行き場のないこの手を握り返してなどくれない。指先が冷えていく。ただそれだけの光景だ。そんなことばっかりだ。誰も何も分かっていない。私は、生きることも、生きるために支えてもらうしかないことも、そのためには彼に好かれなければいけないことも、分かっていて出来ていない。
「救われないね、この先ずっと」
青白く照らす街灯の光で彼の顔がよく見えた。怪訝な顔をしていた。猫の死を待つように、黙って、私を見ていた。私は嘆き悲しむことをするべきだろうか。彼にする意味のない許しを乞うべきだろうか。――そうではない気がした。彼がこういう人間であることは必然で、その傍にいる私はこうあるべきなのかもしれない。常に神経を蝕む死が隣合わせで、彼には治癒にもならない言動で生かされる。だから、私は救われない。
「なんで僕が君に構うと思うの」
「わかるわけないよ……ちっとも」
「生かすも殺すも、僕次第だからだよ」
「……わからない」
「君、弱っちいよ。頭おかしいし、夢ばっかり見てるし、守る意味もないくらい弱いよ」
だから殺すと。けれど、殺す意味もないとも言えた。筋の通らない、まるで自分勝手な彼の言い分など私の耳には留まらない。そもそも、殺すなどと簡単に口にするべきではない。それが喩え私であってもだ。
善でも悪でもない今の彼には、こんな私を放置するのが一番の愉悦だった。自分よりも弱い人間を支配下に置いて、自分はそれよりも優位な立場にあると自覚することで、生きていられるように。詰まるところ、私は彼の玩具に過ぎないのだろう。都合の良い、口答えのしない、貧弱な人間の形をした玩具だ。
掴まれていた髪の毛は、はらはらと解かれていく。少しも痛みを感じなかったのは、彼の言うように、私の頭がおかしいからだろうか。感覚すら麻痺している。
私は彼の鎖に縛られて生きていたようだった。
うずくまる私に、労いの言葉などなかった。溜息もない。守るほど大切でもないから当たり前だ。私など放置でも構わない。
「私のこと、きらい?」
「さあね。でも、図体だけでかい子供は好きじゃない」
「嫌われたくないよ」
「嫌われるようなことをしなきゃいいだけだろ」
諭しているのか、はたまた、蔑ろにしているのか、彼は俯く。落ち込んでいるわけでもないから、きっと呆れているのだろう。
いよいよ彼は溜息をひとつこぼす。私の頭を撫でくりまわしたと思えば、ここに居座るのか、彼はスーツのジャケットを脱いでベッドの上に投げ捨てる。ネクタイを緩めて、私を見ては「弱いものいじめは好きじゃないんだけどさ」そう言って、ベッドに凭れる私を引き剥がして、床に押し付けられた。ひんやりとした床の冷たさが身に染みる。私に跨る彼だけを眩い外の明かりが照らして、腹の底が薄暗いのに煌々としているのだから、私は子供のように泣き喚きたい気持ちになった。
「これは夢、わかる?」
「ゆめ……」
洗脳されたように、呟くしか出来ない。私は、とても子供なのかもしれない。
「温かさの欠片もない生活、一人ぼっちの部屋、思い通りにならない人生、全部夢だよ。君が思う以上にね」
「でも、あだちさんが」
「僕は君の救世主じゃない。まして、犯罪者でもない。言ったろ? 生かすも殺すも、僕次第だから」
私は頷くしかないのだろうか。彼の言葉を真に受けると、幸せが舞い込んでくるのだろうか。少しも優しさの雰囲気なんて纏っていないのに、これが私の幸せとでも言うように語りかけてくる。
脳が痺れてゆく。目が、閉じかけてゆく。
「これは、ゆめ、悪い……ゆめ、私はあだちさんに、ころされる」

部屋は白い。カーテンは仄暗い青だった。台所は大して使っていない。締まりきっていない蛇口から、だらしのない水音が響いている。外はまだ沈んだ朝日から輝く光で空が橙に焼けていた。枯れていた泪は、なぜか浸水していた。





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