「私ね、たぶん、相手の気持ちを重んじるとか理解するとか出来ないんだ」
「なんで?」
「相手の気持ちってなんだと思う?私は解らないの。考えても、考えても」
「俺にはわかるよ」
「特殊能力でもあるんじゃないの」
「どうだろ。相手の気持ちを理解するってそんなに難しいことだっけ」
「難しいを通り越してるよ。触れられないに近い気がする」
友人関係百戦錬磨の彼はけろりとしている。
私にとって人間との会話はとても充実したものとは言い難かった。別段嫌いというわけでもないが、自分が思っている以上に人の感情は大きく揺れ動いて目まぐるしく変わるものだ。それについていけない。相手の気持ちに合わせて適材適所の言葉を捻り出すのは果たして容易だろうか。
彼の思考と行動は決して難しくはないけれど、理解するのに少し時間を要する。頬杖をついて私の顔を見たり伏し目がちになるその気持ちも、解らない。
「今何考えてた?」
「晩御飯何作ろうかなーって」
ほら。私の事かと自惚れたのが恥ずかしくなるほど全く的外れなことを考えている。相手の気持ちを慮ることがどんなに難しいか。がらんどうな教室の窓から温い空気が流れ込んで私を慰めるように頬を撫でる。くしゃみが出そうだ。
「本当に何考えてるかわからないよ」
「俺ほど単純なやつもこの世に存在しないぞ」
「まだ犬の方が解りやすいって」
「そんなことないだろう」
「はあ、人の心を読み取れたら楽なのに」
「人の心を読むなんて、些とも面白くないよ」
自分の感覚で解るだけが丁度いい、と笑う。
面白そうとは思わない。ただある程度理解出来れば円滑な人付き合いができるだろうなと月森を見て考えてただけだ。
彼は人に好かれている。来る者拒まず、去るものは追わない。淡白なようで実の所人付き合いに熱心だった。それは彼の周りの友人達を見ればよく分かることでもあった。彼の一つの言葉で男は心を許し、一つの所作で女は恋に落ちる。しかし私は、ただ絆されている。
何を考えているか解らない。目にかかるほど長く重たい前髪がそれを体現しているかのように揺れる。
「そういえば、月森くんが校内でちょっと有名なの、知ってる?」
「知らない」
「ミステリアスでクールで素敵!って」
「ふうん」
「あとは、いい匂いがするとか」
「なんだそれ。誰情報?」
「小耳に挟んだ話。でも色んな子が言ってるよ」
ふうん、と言いながら自分の事にまるで興味なさそうに机に突っ伏す。まるで猫のように窓の方を見て黄昏れるのも、旋毛が判るほど腕に顔を沈めるのも見慣れてしまった。
彼はそれこそ猫さながら静かに姿を消してしまうことがある。無論登校こそしているが、その後の動向など追えないほど忽然と消える。暫くすると突然現れては顔に小さな傷を作って澄ました顔で私に話しかけに来る。けれど居なかった時に何があったかなんて詮索はしない。だって彼は私のものではないし、何より絆されているからだ。そういう彼との付き合いが謎めいていて退屈しなかった。
心は浮遊してすぐさま沈殿する。
「ミステリアス、ねえ」
「そう見える?」
「少しだけ」
「じゃあ今俺が何考えてるか、わかる?」
「解るわけないよ」
あまりにも表情の変化が少ない。笑うか、真顔か。そのどちらかでしかない。もし人の感情を理解するのに表情からの情報を要するなら私は一生かけても彼のことは解り得ないだろう。
よく見る伏し目、小さく動く唇、可動域の少ない腕。
でも彼が何を考えているかなど常に考える必要もなかった。友人関係とはそういうものだ。秘密があって、そこに触れないという、その関係。
窓の外を見る彼が小さく「ねえ」と零す。声をかき消しそうなほど外から部活に興じる生徒達の声が教室まで届く。活気に充ちた大勢の熱気とは裏腹に、静まり返ったこの場に自分のものとは違う、低く柔軟な声が続く。
「俺の事すき?」
面食らった。えっ、と思わず言葉が出た。どういう過程を踏めばそんな言葉が息をするように吐き出されるのか。彼は今何を考えてその言葉を言った?解らない。冗談か本気かすら判らない。自分が思いの外動揺していて呆れてしまった。
そんな大胆なことを言う彼が私を少し見上げるように机に突っ伏す。綺麗な二重。長い睫毛。マネキンだったらなあ、なんて思う。
強いて言えば好き。でもそれは恋愛感情かなんて微塵も判らない。男女の友情は成立しないというけれど、成立はするだろう。そのあとの展開は知る由もないけれど。偏に、男女が二人きりで教室に残っている時点でお察しと言われたらぐうの音も出ないが。
「さあ、どうだろう。考えたこともないよ」
「可愛くないな。赤面して恥ずかしがるかと思ったのに」
「じゃあ月森くんは私と手を繋いで抱き締めてキッスとかできんの」
「どうだろ。好きならできると思うけど」
「ふうん」
愛情になど飢えてはいない。誰かの手助けが必要なほど困窮もしていなかった。そもそも、成人するまでの未熟な人間には、親以外からの愛情なんて必要に値しない。よしんば心の成熟のためには申し分ないものだけれど、酸いも甘いも私には重荷すぎる。
今の彼とはこのままで居たい。友人とは都合のいいものだと思う。ある程度の触れ合いは許容されるなんでもない関係。勿論、手は繋がないし抱き合わないしキスもしない。お互いの心音も聞こえないし、吐息も届かない距離って素晴らしいものだ。清々しくて、心地いい。心が揺らぐこともない。
でも少し、やっぱり綺麗な美貌には見とれていた。都会で育った品性はこうも顔にも表れて、人を魅力的に見せるのかと感心する。たまにその美貌に触れてみたいとさえ思う。否、その瞬間、友人関係は崩壊する気がして考えるのをやめる。纏まった灰色の髪が太陽に照らされて綺麗だな、くらい、思ってても許されるだろう。
彼は少し考えた表情をして、閃いたように目を開ける。
「じゃあ手出して」
「えっ」
「ここに。手、出してみて」
机をとんとん、と小突く。
おずおずと太股の上に鎮座した手を差し伸べると、彼は自分の手を被せようと手を翳す。どきりとする。慕情ではなく、危機感の方だ。
続けて彼は主導権を掴んだと言わんばかりに密やかに笑う。その姿は高校生ではない。悪魔だ。
「この手、繋いだら、友達やめる?」
−−ぎょっとした。私の心が読めるのだろうかと。やはり特殊能力というのも言い得て妙かもしれない。彼はどこか他の学生とは違って超越している。
彼の手の影に覆い隠れてしまう手を引き戻そうかと考えたが、縛り付けられるように動かない。震えてはいないが、体温は下がっていく。
友人関係の崩壊。一歩前進の事か、後退のことか。私はそれを前者だと感じていたけれど−−彼は?−−どうだろう。ミステリアスでクールという彼の博打には、もうちょっと彼を知るためのきっかけがあるのだろうか。少し気になった。
「人の気持ちわかるんでしょ。考えてみてよ」
はて、どうしたものかという表情で突っ伏していた顔を上げる。目が抉り取られそうなほどこちらを凝視する。彼はよく人の目を見るが−−目を見て人の気持ちなど分かるものか。しかし彼はそれを成し得そうな雰囲気があってどきりとする。特段覗かれて恥ずかしいことなど考えてはいなかったが、後ろめたい気持ちが湧き上がる。
深呼吸をしたら澄んだ空気が漂っていた。吸い込めば、教室の匂いより先に彼の匂いが優先される。−−いい匂い。熱心に談笑に尽くす女子生徒達の言っていたことを思い出す。香水や柔軟剤などのそれではない匂い。彼は無意識に香りを振り撒いている。染み付いた、都会の匂いに等しい。都会に行ったことなど一度もありはしないけれど。
「たぶん、友達やめちゃうかもって思ってる」
合ってた?と笑う。溜息が出る。感心でもあるし、辟易ともする。エスパーか何かなのか。いい匂いは惑わしだったのか。最早喋る意義が見当たらない。
「ほんっと怖いわ」
「解りやすいよね。顔には出ないけど」
ふふふと満足そうに笑う姿を見ても、とりわけ彼はわざと良い人を演じている様子もなかった。都会から越してきて馴染むために努力している様子もなかった。ごく自然で、疑いようもなく好青年だった。それは誰に対しても変わらない。人の目をよく見て、些細な変化を摘み上げ、気の利いた言葉を差し出す。よくもまあそこまで他人に献身的になれることだと感心する。それが彼の性分であるならば、否定はしないが。
彼の過去のことは聞いたこともないし、どういう過程でこのような彼が形成されたか、どういう愛情を受けてきたかなどは言動や雰囲気からは些とも読み取れやしない。悪人ではないことだけが確かだった。
私の意図しないところで行動よりも感情が先行していたようだった。兎にも角にも、彼は私を見え透いている。
「まさか。顔に出てないならそれこそエスパーだって」
「まあ犬ぐらい分かりやすいってことだ」
「えっうそでしょ」
「嘘ついてどうするんだ」
彼は私を見透かしている。彼の手のひらの上で上手に転がされている。嫌な気がしないのは清く正しい友人だからだろうか。
彼は本物のエスパーではない。



「じゃあ、俺の気持ちはわかる?」
一つ、ゆっくりと瞬きをして私の目をじっと見つめる。
またこれだ。俺の気持ちが分かるかと訊いているのに一足先に心を読もうとしている素振り。しかし何故だろう。彼の真意は本当に解らない。私はエスパーではないし、特殊能力も持ち合わせていない。なるほどしかし、彼が校内でミステリアスと言われる所以は解ったような気がするのに。
電気の消えた教室で、温い風が吹いてきて、一つの机を二人が共有して、放課後なのにまだ青々としている。映画の一コマかと思うほど作り上げられた空間で彼と目を合わせると睫毛の長さをじっと見てしまう。目は口ほどに物を言うなんて嘘じゃないか。何も読み取れない。目の前がちかちかして頭を抱えたくなる。
飽くまで平常心で、こういう時なんて言うんだっけと頭の中の引き出しを乱暴に開けては、ええとええと、言葉が漏れそうになる。
しかし悟られてはいけない。戸惑っていることなど。
「友達の定義、とか」
「ふうん」
至極慎重かつ普通に対応したつもりだが、何かを察したように含みのある返事をした。ただただ居心地が悪い。
伏し目のまま私の手の上にひとまわり大きな手が重なる。体温が伝わる。あ、と思わず言葉がこぼれ落ちると、彼はふっと笑いながら「友達以上恋人未満がいいなって思ったんだよ」なんだそれ。瞬きが増える。少しも口角が上がることなく、でも真面目というほど堅くもなく。
そんな難しいこと考えてたのか、なんて私が考えたのを彼は見通せただろうか。
「どういうこと?」
「言葉のままだけど」
「不純異性交流だなあ」
「まさか」
相思相愛でもなく、ただの友人関係でもなく。体のいい関係とは言い難い。慕情があるのかと問われればないだろう。
まさに教師が口を酸っぱくして言う不純異性交流とはこのことではないだろうか。
「特別だからね」
−−特別だから。
はてさて、彼が転校してきてからこの日までのことを思い出してもそのような切っ掛けも思い出もない。やはり飽くまでも、ただ出会えば挨拶を交わし時間があれば会話をするし、共に下校もする。らしい友人である他ない。
頭の中で反芻するそれは、意味のある言葉だろうか。反故にするつもりはないけれど、心の中に大切にしまうことも出来ない。嬉しくはないのに、笑ってしまう。
「馬鹿にしてるなあ」
「してない。捻くれすぎ」
「ほんと、何考えてるか解らないや」
「解ってみようとしてくれよ」
「頭の中パンクしそうだから厭だ」
「だから俺は至って単純だって」
ならもう少し言葉を増やしてくれと思う。単純と言う割にはあまりにも、あとは自己解釈よろしくと投げやりでしかない。
彼の言動はやはり難しいものではなかった。物事に関しては白黒はっきりしているし、悩んでいたらばそう言うし、決断も素早い。なのに今ひとつ理解に苦しむ。簡単なことを難しくしている。矛盾しているが、そう感じるのだ。何かを隠しているのか、悟られないようにしているのかは定かではないけれど、信用されていないわけでもない。謎。この一言に尽きる。
「手を繋ぐのは友達以上なの?」
「そう。抱き締めるのも友達以上」
「へえ」
友達以上恋人未満とか言いつつ、都合のいい人に成り下がりはしないだろうか。手を繋ぐことで、抱き締め合うことで、恋人以上になることはないだろうか。否、お互いそこまでは望んでいないのかもしれないし、無意識の自制心が上手く機能するだろうとなぜか確信があった。けれど、線引きの具合でぐらりと揺れるその天秤は私だけでは到底抱えきれない重たい関係かもしれない。
ぎゅっと包み込まれた右手が次第に温かくなっていく。私の中の薄っぺらい警戒がぽろぽろと音を立てて零れ落ちる。彼の体温が伝わる。思わず指先がぴくりと動く。それをまた包み込むように彼の手はゆっくりと滑らかに私の手を指先まで握り返す。
人の心内までは解らない。どんな関係になってもずっと理解できない気がする。
外を見ると先程よりは夕方に近づいて、温かった風は少し涼しい。
ふと名前を呼ばれる。苗字で呼ばれることに変わりはないし、その点に不信感は募らない。飽くまでも恋人未満であるのだから。
「俺の事好きになった?」
「前と変わらないよ」
「俺はちょっと、前より好きになったよ」
「き、キザなこと言うなあ……」
「はは、ドキドキした?」
「そこまで恋愛鍛えられてないよ」
澱みのない、高校生らしい生活って、こういうことだったっけ?
澄み切ったとまでは言い過ぎても、甘酸っぱい演出をするのが彼は上手だった。嵌められているとさえ思えてくる。彼の雰囲気からは都会の匂いがする。
私が立ち上がると、彼は重ねた手を私の腕に滑らせ掴むとおもむろに引き寄せた。こういう所、予測出来ない。友人関係から抜けるとすぐこういうことになるなら今まで通りでよかったのに。キザなことは好きじゃない。
「睫毛長い。いい匂いする。あとスカートもう少しだけ短いのが好き」
風で前髪が揺れる。彼が柔らかく笑う。
これは友達以上だからか、恋人未満だからしたことだろうか。
考えるだけで頭がパンクしそうだ。許容しきれない彼の言動が私の心をぎゅっと掴む。あたかも私の心が何処にあるのか知っていたかのように、自然に、優しく、しかし風のように感覚は過ぎ去っていく。
「知ってた?女の子がいい匂いするのって医学的に証明されたらしいよ」
「ふうん」
「なんで女の子って食べられそうなんだろう」
「月森くんも十分細くて白くて美味しそうだよ」
つっけんどんに返すとまた掌に彼の手が滑り落ちてくる。指先を撫でて指と指の間を埋めるように握り返してくる。温かい。
初めて女というものを細かく見て、触れたみたいに一つひとつ言葉にするけれど、顔が良くなかったら変態と同義である。
綺麗な顔は綺麗なまま、薄い唇を動かして少し笑う。
彼は人の心を掴むのが上手いのか、気持ちを理解するのが上手いのか、もういよいよ解らない。
心が飲み込まれそうだ。
「もう帰ろう。女の子じゃなくて、ちゃんと白いご飯食べよう」
「ええ、つまらないなあ。もう少しでキス出来そうだったのに」
「キスは恋人以上でしょ」
「俺は恋人未満だと思ったけど」
「可笑しいよ」
「そんなことないよ」
他愛のない会話。ただそれだけで私は彼に満たされている。絶え間なく絆されている。それだけでいいんだ。彼の心には触れられない。尊すぎて、敷居が高すぎて、覗けもしない。若しかすると存在する彼の愛情に気付くことがないように、私が彼の言葉を一言一句聞き逃さずに会話ができるように。
今、この場所は友達よりも高く、恋人よりも低い位置にある。境界線はお互いの感覚によってその位置を狂わされている。この均衡が崩れた時が、友人関係の崩壊に他ならない。
「あぁあ。今日の晩御飯は魚が食べたいなあ」
「食材奢ってくれるならうちで食べてってもいいよ」
「……そう来るとは思わなかったなあ」
人の心なんて移り変わるものだから。
私はいつまでも貴方の心なんて読めないし掴めない。他愛のない会話が丁度いい。
自分の感覚で解るだけが丁度いい。





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