思うに、文章というものは陰口のようなものである。自分と全く関係のない人物に知れてもどうも思わないが、近しい人に知れれば何とも都合の悪いもの。
 まあ往々にして、書き手というものは自分の考えを文章に混ぜ込むものであるから、仕方のないことであるとも言える。つまり、知り合いに自分の文章――特に小説や評論なんか――を読ませるということは、その相手に自分の主張を子細に、しかも熱心に語ることに等しいのである。そんなことは、仕事でもない限り、ある程度世の中に染まった大人には出来ない。恥ずかしい。自らの考えを匂わせることもせずに文章を書ききることの出来る人間は、多分きっと恐ろしく賢い。老いた山羊のごとく老獪にして狡猾な頭脳を持っている。一流の詐欺師だ。
 俺はと言えば、残念と言うか何と言うか、そのような良くも悪しくも優秀な頭脳を持ってはいない。俺は、小中高の成績表の評価は一貫して可であり、大学受験では一浪して中程度の国立大学に入学、可もなく不可もない成績で卒業し、小説家を目指しながらいくつかのゴシップ誌で低俗な記事を書いて何とか食い繋いでいる、といった凡庸な男なのである。
 俺は今、安アパートに借りた自室で、目の前に座る人物を恨めしげにねめつけていた。



「思ってたんだけどさ、こーちゃんの文ってくどいよね、すっごく」

 そう言って、柏崎寧子は原稿用紙の束をロ−テーブルに投げた。
 寧子は俺の高校以来の友人である。寧子、という名前はもちろん本名であるが、寧子はれっきとした男性である。別に彼はニューハーフだとか性同一性障害だとか――俺にはそれらの違いが明確にはわからないわけだが――いうわけではない。彼が生まれたときに、慌てた父親が性別を確認することも忘れて市役所に走った結果。それが寧子の言い分であるのだけれども、その話の真偽は俺には分からない。ただ寧子は帰省するとき必ず、まるで武装のように化粧をして、白を基調にした愛らしい女物の服を着て帰る。寧子の女装の完璧さと言ったらそれはもう、不吉なほどで。その事実を踏まえた上で俺が出来るのは、酷く凡庸で下衆な勘繰りだけなのである。
木目調のローテーブルの上に無様に横たわる原稿用紙を見遣る。黄土色のインクが描く枠にきっちりと収まるように書かれた筆圧の強い文字は、薄っぺらな用紙の上で所在無げに立ち尽くしているように見えた。卒業文集に載せる、望まないテーマを強要された作文のようにも見える。否、きっとそれらはイクォールで結ばれるべき2つであるのだ。原稿の書き方においてすらも、俺は学生のレヴェルから脱することが出来ない。どうしようもない歯痒さが、胸の内に重たく凝った。

「こーちゃん、おんなじこと何回も書くよね。お婆ちゃんみたいでなんか、かわいいなぁ」

 寧子の細い指が、ローテーブルの上に引っかかるように乗っかった。俺とは違う、胼胝の一つもない白い指の先には、よく手入れされた形の良い爪が付いている。爪を噛む癖を無理やりにやめさせられた、その屈服が憐れだ。寧子は間違いなく、俺が今までに出会った中で一等可哀想な人間だった。守ってやりたい、愛おしんでやりたいというタイプの憐れさでは決してない。むしろ、その憐れをおくびにも出さない様子が憎々しい。
そう、俺は寧子を憎んでいた。理由などはない。憎しみというほど切羽詰まっても鮮烈でもないようなのだが、ならば俺はこの感情を何と定義づけたらよいのか。苦手と呼ぶにも、嫌悪と呼ぶにも鋭利すぎるこの感情を。丁度良い単語は、俺の狭量なボキャブラリには存在しない。

「お前、一体いつまで居るんだ。さっさと帰ってくれ」

 目の前で自分の文章を読まれた、そのことに対する些かの気恥ずかしさを押し込めて発した声は、自分でも驚くほど掠れていた。存外に俺は緊張しているのかもしれない。それも仕方のないことなのだろう、寧子が今しがた読み終えたのは、俺が心血を注いで書き上げた長編ミステリであったのだから。言うなれば、俺は今寧子に自らの全てを曝け出したに等しい状態なのだ。下品な言い方をすれば、俺は今寧子に凌辱されたのだ、無論精神的な意味で。

「つれないなぁ、もうちょっと構ってくれたって良いじゃない。ほら、明後日お祖父ちゃんの三回忌だから。明日には実家帰んなきゃならないの、おれ。ね、今日だけ甘やかしてよ、こーちゃん」

 ぱちくりと大きな両目を瞬かせて、こてんと首を傾げる様子は贔屓目を差し引いても酷く愛らしい。外見、喋り方、仕草。どれをとっても寧子は女だった。よく躾けられている。寧子が男である証など、戸籍と、そのカモシカのような両脚の間にぶら下がるものだけなのだ。いっそ、女になってしまえばいいのに。
 俺は寧子の、その桜色の爪を見た。一般の成人男性には当然のことながら、何も塗られてはいない。しかし俺は知っていた。寧子は、帰省のとき必ず真っ赤なマニキュアを塗る。

「なら来いよ。マニキュア塗ってやるから」

 底意地の悪い優越感を感じながら、寧子を招く仕草をする。寧子は一瞬顔を顰めたが、すぐに四つん這いで俺のそばに寄ってきた。寧子は決して馬鹿ではない。俺がこうして寧子を甘やかすことなど滅多になく、これを逃せば次はいつ優しくされるかわからないということをよく理解している。だから、甘やかしとして大嫌いな女装を手伝われる屈辱も嫌々ながらも受け入れるのだ。
愛されているのだと、思う。それが友人としてなのか、はたまた別の意味合いとしてなのかは俺には分からない。しかし、これだけはわかる。俺は確かに寧子に愛されている。嗚呼、嗚呼、忌々しい。
 近くの本棚にちょこんと鎮座ましましていたマニキュアの瓶を手に取る。先月寧子がここを訪れた時に置いて行ったものだ。だらしのない寧子は、よく俺の部屋に自分のものを置いていく。そしてそのことを忘れて無くしたと思い込み、べそをかきながら俺に連絡を入れてくることが常だった。
 泣いている寧子を見ると、俺は心底寧子が鬱陶しいのだなと思う。理解しているつもりのことを、まざまざと思い知るのだ。涙が寧子の卵形の輪郭をなぞるのを見ると、どうしようもなく胸がざわつく。それはもう、耐え難いほどに。泣くなと怒鳴るように言い聞かせれば、寧子はいつも苦しそうに泣き止んだ。嗚咽を必死で飲み込んで、流れる涙を両手で隠して、寧子は俺の言いつけに従おうとする。寧子、俺はお前の、そういうところが憎いんだよ。
 寧子が差し出した右手の爪に、赤い色を乗せていく。寧子がいつも纏う白いフリルのワンピースに、こんな毒々しい色はとても不似合いだ。その違和感を、寧子はいつも嬉しそうに愛する。いっそ健気だ。寧子は、笑っていいものなのか悲しんでいいものなのか考えあぐねているように見えた。どっちもやめていいんだよ。俺は心の中で優しく、珍しく優しく言い聞かせる。お前はそのまま、言いなりの綺麗なお人形のままで良いじゃあないか。そうしたら俺はこのまま、寧子を憎んだままでいられるのだ。言ってはやらないけれど。

「こーちゃん。こーちゃんは、俺のことすき?」
「……嫌いでは、ないな」

 嫌いではない。憎んではいるが。
 寧子は酷く嬉しそうに笑った。俺は寧子の笑みの眩しさに目を細めて、また手元に視線を落として赤い爪を一本一本増やしていく。こーちゃん、器用だね。寧子がぽつりと言ったが、聞こえないふりをした。

「寧子、いきたくないか」

 右手の小指にむらがないことを確認して、寧子の左手をとる。視線を上げれば、寧子はきょとんとして俺を見ていた。満月の目がゆるゆると瞼を下して、下限の月で止まった。

「……帰りたく、ないよ。でも」

 でも。その先は続かなかった。寧子は何かを憂いた表情のまま、自分の爪の先を見ている。
 俺は『生きたくないか』と聞いたつもりだったのだが、寧子には『行きたくないか』と聞こえたらしい。しかし、知ったところでどうにもならないことだと思ったので、あえて訂正はしなかった。寧子がどう答えたところで、俺には一緒に生きてやることも、死んでやることも出来はしないのだ。ただ。

「逃げるか」

 一緒に逃げてやることなら、多分できる。
 寧子の目がまた満月を模って、涙が一粒だけ、寧子の肌を伝った。ざわり、胸が騒ぐ。それがあまりに不快だったから、俺は寧子の滑らかな肌に自身のかさついた唇を這わせた。
 今に限って言うならば、俺は寧子をこの鋭い憎しみごと愛せる。そんな気がした。


 寧子の左手に再び赤が乗ることは、果たして無かった。







2011.03.27
「マニュキアと紫煙」改稿改題
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