秋霜 | ナノ


▼ 4

 うわぁ、無理してるなぁ。
 典子は書店の柱に寄りかかって、そんなことを考えていた。目の前の人ごみの隙間からちらちらと覗く寳田の笑顔は、大変教科書的な、美しい造形美を見せている。それが作り笑いであると見抜くのは、そう難しいことではなかった。典子の知る寳田律は、あんな風には笑わない。典子はまともに寳田の笑みを目にしたことはなかったが、少なくともあんな、邪気のない風に笑う男ではないと思うのだ。
 目の前のブースに群がる人ごみは全て女性だ。店員の指示に従って順番待ちをする行列もまた、ほとんどが女性である。寳田のお綺麗な顔面ゆえのことなのだろうが、彼のファンには女性が圧倒的に多い。
 典子はひとつ溜息を吐くと、サイン会が行われている一角から目を離して、辺りをぐるりと見回した。全国チェーンの、大きな本屋である。小説も伝記もエッセイも漫画も、専門書や参考書、写真集や画集まで揃えているのであろう巨大な書棚がずらりと並ぶ。典子はあまり本が好きなわけではなかったが、画集などはよく買いに来るので、ここも馴染みの店舗である。
 そこまで考えて、典子はちらりと背後のブースを見た。相変わらずの人ごみは、途切れる様子がない。行列はどんどん長くなっていって、店舗の外にまで伸びつつあった。アイドルかモデルにでも転身した方が売れるんじゃあなかろうかと、半ば本気でそう思う。さっきまで時折ちらりとのぞいていた寳田の貼りつけた笑顔も、今や厚くなった人の壁に遮られてちっとも見えなくなっていた。

「お疲れさまでした、寳田さん」
「……呑気に買い物か、言い御身分だ」
「そうは言いますけど、私今日はプライベートですよ」
 典子からすれば、休みを――貴重な、とは言えないのが幸か不幸かは典子には分からなかったが――わざわざ寳田のお守りに費やして、礼の一つも欲しい所だった。しかし当の寳田は長時間のストレスに晒されて気が立っているのか、憎々しげに囁いたきりむっすりとそっぽを向いている。典子が持つ書店の袋もまた、彼の不機嫌を助長する結果となっているらしかった。
 寳田と連れだって街を歩くのが、典子はあまり好きではない。寳田の美術品のような見た目は、良くも悪くも人目を引くのだ。擦れ違った人は大抵有名人か何かを見たかのように振り向くし、自分の平々凡々な見た目が恥ずかしくなってくるくらいである。典子は自分の外見に対して十人並という評価を下していたが、やはり隣に居るのが寳田であるというだけで謎の劣等感に苛まれる。2人の足は示し合せたように駅の方に向かっていた。駅前の書店に行くのにわざわざガソリン代と駐車料金を負担してまで車を出すような余裕は典子にはなかったし、一方寳田はそもそも車を持っていない。聞けば免許を取ったきり運転していないらしい。あまり外に出たがらない彼からしたら、維持費ばかり掛かって無駄なものに思えるのだろう。
「何を買ったんだ」
 と、寳田が書店の袋を覗き込むようにして典子の手元に目をやった。典子もつられて下を見る。先ほどの書店で買い込んだ本はずっしりと重く、袋の持ち手が典子の指に食い込んだ。
「水彩画の教本なんですけど、色んな画家の作品がたくさん載ってたので買っちゃったんです」
「ふうん……」
 典子が袋を持ち直しながら答えると、寳田は乾いた様子でそう答える。自分から聞いておいて、と典子は些か面白くない気分になりながら眉根を寄せる。
「寳田さんは油彩がお好きなんでしょうけど、水彩も素敵なんですよ。重厚さは確かに出しづらいですが、油彩にはない透明感がありますし、何より画家の見たものを額に閉じ込めた臨場感があるというか」
「……別に水彩が悪いだなんて言ってないだろ。俺だって油彩より水彩の方が好きだ」
 どちらかと言えばだけどな、とさらりと言ってのける寳田に、典子は軽く驚いた。寳田が典子の言葉に賛同したのにも驚いたが、それよりも寳田の言葉が信じがたかった。仮にも油絵画家の寳田が、どちらかと言えば水彩が好きなどと。
「寳田さん、水彩お好きなんですか」
「好きだよ。別に君みたいにどこがどう良いなんて突き詰めて考えた事はないけど、感覚的な意味で」
 それがどうかしたのか、などと言い出しそうな調子で、寳田は言う。典子はともすれば止まってしまいそうな足を叱咤して何とか寳田に歩調を合わせながら進む。典子と連れだって歩くときはいつも、気を遣ってかゆっくりと歩く。しかしそれでもリーチの差というのは悲しいもので、典子は少し早足を強いられてしまう。それを寳田に気取られるとさらに歩調を緩められてしまうので、気付かれない程度に大股で典子は歩いている。
 既に驚きよりも喜びだとか昂揚感の方が勝っていた。何であれ同好の士を見つけるのは嬉しいのもので、それがまさか寳田だとは思いもしなかったが、典子はそれでも弾む心地がした。寳田と2人の時はいつも当たり障りのない世間話か、典子にとっては造詣の深くない油絵を話をしていたが、もしかしたら典子の趣味の話も案外聞いてくれるのかもしれない。
「……こ、今度、貸しましょうか」
 その言葉は、思ったよりもするりと口から流れ出た。今度は寳田が、驚いたように典子を見る番だった。
「私が見終わった後なので、少しお待たせするかもしれないですが」
「……いいのか?」
 寳田の薄氷の目が典子を見る。その目は見開かれて、先ほどの貼りつけた笑顔より余程人間らしい。何だか今日は、典子の知らない寳田の表情をよく見る日だ。
「いいですよ。寳田さんは水彩なら誰が好きなんですか」
「……そうだな、ガーティン」
「モルヘス橋?」
「ウォーフ川」
 寳田が笑う。少しだけ目尻を緩める、注意して見ていなければ見逃してしまいそうな笑みで。典子もまた笑って、「私も好きです、空が素敵ですよね」と返した。夕暮れが近い。昼間よりも冷めた空気が生温かった。


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