秋霜 | ナノ


▼ 3

 庄野に揺さぶりをかけられて簡単に白状してしまった自分が情けない。何というか、まだまだ自分は子供なのだと知らしめられた気分だ。典子は鬱々とした気分で坂を上っていた。これから典子は、寶田の家を尋ねる。
 季節はまだ11月、まだ寶田に会うような予定は無いはずだったのだが、たまたま大口の顧客が油絵を買いたいと言ってきたことで、事情が大幅に変わってしまった。油絵が専門ではない鷲沢画廊でそれを揃えようと思えば、やはり油絵画家の寶田を外しては目処も立てられない。そしてオーナーである鷲沢は当然典子があまり寶田と会いたくないことは知らずにいたし、悪いことに寶田の担当は他ならぬ典子であった。
 別に寶田や鷲沢、さらにはクライアントに非があるわけでは勿論無い。これは典子の中で整理がついていないことが原因であって、別に誰が悪いというわけでもないのだ。しかしやはり会いたくないものは会いたくなくて、典子の足は自然重くなる。ここに来るまでだってずるずるずるずると躊躇って引き延ばして、近くの駐車場に車を止めたときにはもう日も落ちてしまっていた。いくら最近日が早く暮れるようになってきたとは言え、これはひどいと典子も感じている。
 本音を言うならこのまま坂を下りて帰ってしまいたかったが、まさかそう言うわけにもいかない。わざわざメールでアポイントメントまで取っているのだ。典子の気が向かないという、言ってしまえばつまらない――典子にとっては当然重大な問題であるわけだが――理由でアポを取り消すわけにもいくまい。
 典子は鉛のように重い足を引きずるようにしながら、なんとか坂を上りきった。この坂を上るのも何週間かぶりである気がするが、はじめの頃に比べて随分楽に上れるようになったものだ。気温が低くなったのもあるのだろうが、以前はこの坂を上る度に息が上がって大変だった。今は多少の気の重さこそあれ、難なく上ることが出来るようになっている。
 「はあ……」
 そして典子は重々しい溜息を吐く。寶田の家は、この坂を上りきってすぐのところにある。


 いつのことだったろうか、同じように寶田の家の玄関先で、こんな風に立ち尽くしていたことがあった。その時は暑くて汗が引くまで軒先の日陰を借りていただけだったのだが、もちろん今の典子は汗など掻いていない。ただインターフォンのボタンを押すのが気が重いという、それだけの理由で呆然と立っていた。
 一度深呼吸をして、ボタンを押そうと手を伸ばしかけて、やめる。先ほどから何度も繰り返している行動だったが、いまだに決心がつかないでいる。やることは分かってはいるのだ。このまま入って、「今まで無神経なことを沢山言ってすみませんでした」と謝ればいい。それから仕事の話を初めてしまえば、何とかうやむやにも出来るだろうという狡い考えさえあった。しかしやはり最初の一歩というのは踏み出し難いもので、
典子はかれこれ10分以上こうして玄関先で突っ立ったままでいる。
「……」
 ごん、と。典子の額が、玄関の扉に打ち付けられる。どうしても、ここから先に進める気がしなかった。多分端から見れば、何をくだらないことを気にしているのかと思われることだろう。踏み出してしまえば、拍子抜けするほど簡単に終わることであるだろうとも理解している。しかし。
「逃げ出したい……」
 やはり典子は、ここから逃避してしまいたかった。いまだに、寶田にどういう顔で会えばいいのか、どういう声で話しかければいいのか、どういう態度で接すればいいのか、典子には分からずにいる。
 ――と。
 がちゃりと、突然ドアが開いた。
「ぎゃっ」
 蛙が潰れるような声、というのはこういうのを言うのだろうか。あいにく、典子は蛙が潰れる音というのを聞いたことがない。
 外開きのドアが突然開いたので、そこに額を付けて寄りかかっていた典子は大きくバランスを崩し、……そして、後ろに尻餅をついた。
「……何をしてるんだ、一体」
 頭上から聞こえてきた声に、典子は何だか懐かしくなってしまった。自分はそんなにこの声を気にしていたのだろうか。そう思う。手足が冷えるような心地がした。
「人の家の玄関先でいつまでも突っ立っていないでくれる」
 呆れたような声が言うその言葉には、聞き覚えがあった。典子は前にも一度、この声にそんな言葉をかけられたことがある。――しかし、何かが。何かがあの時とは違うと、そうも感じていた。
 典子は顔を上げる。玄関のライトを背に、高い位置にある金髪が自分を見下ろしていた。彼の顔は影になっていて、一体どんな表情をしているものなのか、典子には分からない。
「……たからだ、さん」
 典子が呆然と呟くと、彼はその言葉を拾い上げて、「なに」と返事をする。やはり、違和感。
「……泣いてたんですか」
 何故そう聞いたかは、典子にも分からなかった。別に寶田の声が震えていたわけでもないし、彼の頬に涙の雫が光っていたわけでもない。ただ、泣いていたのかと聞きたくなったから聞いた、それだけだった。
 彼は影になった顔を少し傾けると、「何を言ってるんだ」とだけ言った。長身が屈んだかと思うと、すっと手が伸びてきて、典子の腕をつかんで引き上げる。距離が近くなったことでよく見えるようになった寶田の顔はいつも通りで、泣いている風にはやはり見えなかった。
「待ってた」
 寶田が言う。典子はその言葉にいやにほっとして、そして。
 そして一歩、前に踏み出した。


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