秋霜 | ナノ


▼ 1

 寶田律の初恋、というワードは、多大な興味をそそる響きである。典子も多分に漏れず好奇心のままに寶田を質問責めにした。そして意外なことに、寶田もそれに反発することなく次々と答えたのである。典子が今まで思っていた寶田の性格からすれば、あり得ないことである。少しは心を開かれていると取ってもいいのだろうか。それが良いことか悪いことかは別として。
 とにかく典子は、寶田の初恋について根掘り葉掘り聞きだして、そして、――今、大変後悔している。
 知らず大きな溜息が漏れた。物思いに耽って、しかもこの静かな事務室においては騒音ともなりうる溜息を吐くなど、間違っても勤務中の態度ではない。しかし典子は今現在それをしてしまっていた。いけないことであると、解ってはいる。しかし典子も人間であり、人間である限り、つい考えごとをしたり、意図せず溜息を吐いてしまうということは仕方のないことなのだ。仕方ないこと、だと、少なくとも典子は思いたい。
 鷲沢は取引先に納品に行っていて、今事務室には典子しかいない。幸か不幸か、典子の上の空を咎める者はここにはいないのだった。
「……最低じゃないか、私」
 典子はひとりごちる。自己嫌悪、というやつだ。脳裏に、寶田の水彩画がよぎる。記憶の中に描かれた長い黒髪が、なんだか典子を責めているように感じられた。
 知らなかったんだから仕方ない、と典子は何度も罪悪感を合理化しようとするが、それはずっと失敗に終わり続けている。知らなかったからといって、典子が寶田に向けた無責任な言葉は帰ってくることがないのだ。無理矢理に罪悪感をやりこめたとして、それで満足するのは典子ただひとりなのだった。
 例えば、あの水彩画を「売れる」ものだと言ってしまったことだとか。例えば、寶田に対して「恋人でも作れば」と言ってしまったことだとか。
 あまりに無責任に過ぎる。他の誰が言っても、典子だけは言ってはいけない言葉だったのではないか、あれらは。
「……はぁ…………」
 大きく溜息をひとつ吐く。幸せが逃げていく。今日だけで一体どれだけの幸福を逃したのだろうと、典子はそんなことをぼんやりと考えた。とうとう仕事の姿勢を放棄して、机に突っ伏す。
 典子が気にしているほかにも、覚えていないだけであって、典子が知らず寶田を傷つけてしまった言葉はまだいくつもあるはずだった。きっとそうだ。それを回避するには典子はあまりに無神経であって、寶田は――いや、これは寶田に非があるわけではないのだが――あまりに繊細だった。ただただ考え無しな自分が厭になる。また溜息が漏れた。

――これを描き終えるまで、初恋と決別することは出来ないんだ――

 寶田の言葉が甦る。典子に尋ねられるままにぽつぽつと言葉を紡いでいた寶田が、視界の裏に焼き付いたかのようだった。その睫毛の束の細やかさまでが、奇妙なほどに思い出せる。
 初恋、――初恋。寶田の初恋。
 それは彼にとって、決別しなくてはならないものなのだろうか。そんなにも忌まわしい、そんなものなのだろうか。別れを告げなければ、一歩も前に進めないかのような。あの美しいひとが、そんな悲壮感を纏うほどの。
 典子の抱く初恋のイメージとは、それは随分違っていた。あの日の、額縁の向こうの世界に囲まれた典子の初恋とは、随分違っているように思えた。本当に同じものかと思えるほどに、それらは違っていた。
 あのあと典子は、寶田の初恋についてあれこれ聞いて、それから何だか自分の無神経さに嫌気がさして、用事を思い出しただの何だの言い訳して退出して。――結局あの日の水彩画は見れていない。しばらく、寶田の顔も見れる気がしない。もうすぐ終わりだと言っていた寶田の水彩画の、その最後を典子は見届けられるだろうか。あの黒髪の乙女の行く末を、典子は見届けられるのだろうか。
 典子は机に伏していた顔をのっそりと上げて、仕事の予定を書き込んだ卓上カレンダーに目をやる。先日個展が終わったばかりの鷲沢画廊は、これからしばらくは作品の買い付けと納入の日々を送ることになっている。幸い、と言っていいのかは分からなかったが、今月の予定の上に寶田の文字はない。ならば次に彼に会うのは冬になってからだろうか。
 典子は重々しく手を伸ばすと、卓上カレンダーをぱたりと机に伏せさせた。今は何となく、予定を見たくはなかった。予定を追っていくと、どこかで必ず寶田について考えなくてはならなくなる。
「……逃げたい」
 ぽつりと、典子は言った。逃避したい。何からなのかは分からなかったが、ただ逃げ出したかった。それは寶田からなのか、自分自身からなのか、この罪悪感からなのか。それは分からなかった。
 典子は目を閉じる。このまま眠ってしまおうか。鷲沢が戻ってきたら、きっと叱られるのだろう。自分が投げやりになっているという自覚はあった。
「……」
 はぁ、と溜息を吐く。肺の中の空気を全て押し出すように、大きく、長い溜息を吐いた。のそりと起きあがって、典子は机の上に上げっぱなしだった資料の束をめくった。仕事をしよう。そう、就業時間中は仕事をしなくてはならない。眠るなど以ての外だ。そう自分に言い訳しながら、典子は無理矢理に思考を寶田から引き剥がした。
 このまま眠って、またあの、初恋のときの夢を見るのが厭だった。
 今は、今だけは。あの夢を見たくはなかった。


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