秋霜 | ナノ


▼ 5

「お前が迷子になったのは、都の水彩コンクールの入賞作品を見に行ったときだろう。ほら、都立の美術館のロビーでやっていた」
「え、そうだったっけ?」
 記憶の中の展覧会がそんなにちゃんとしたコンクールだとは思わなかったので、典子は些か驚いた。てっきりどこかの絵画教室の催しだと思いこんでいたのに。久々に帰った実家で、典子はリビングのソファーでくつろぎながら父の話を聞いている。
 父、高坂康則は蓄えた顎髭を撫でて、「お前が迷子になったのはあの一回きりだから、よく覚えている」と言った。そんなことを言っている父が、あの迷子事件を誰よりショックとして捉えていることを典子は知っていた。あの時典子とはぐれた父は泡を食って美術館中を探し回っていたらしいし、未だに母にそのことを蒸し返されると分かりやすく落ち込むのである。体格の良い初老の紳士が食卓の椅子で縮こまっている光景は些か不似合いなものがあったが、それこそ小学生の頃から見慣れた光景なので、典子は今更何とも思わない。
「水彩画がいっぱいあってテンションが上がっちゃったのは覚えてるけど、どんなところでやってたかなんて覚えてないよ」
 典子が言うと、父は鷹揚に頷いた。
「小学2年生の頃だったから、そんなものだろう」
「うそ、私そんなに小さい頃だった?」
 まさか小学校も低学年の頃の思い出だとは思いもしなかった。わざわざ父を落ち込ませてまで掘り返すような話だとは思っていなかったし、典子もそこまで自身の思い出を詳細に発掘しようとは思っていなかった。最近何故かよくあの時のことを夢に見るようになって、やっと父に世間話がてら話題を振ってみたのだが、案外自分の思い出というのはあてにならないな、と典子はいっそ感慨深い思いがした。子供の頃の思い出とは、自分の思いこみが多分に含まれているものなのだと経験として感じてはいても、やはり間違いを正されるときの違和感は拭いきれない。
「なんだ、本当に覚えてないんだな」
 父はそんな典子を見てそんなことを言ってくる。確かに典子もそこまで記憶に穴があるものとは思っていなかったので、「まあ、うん」と曖昧な肯定に留めておいた。父はあの時40代に差し掛かったあたりの年齢だったろうから良く覚えているのだろうが、典子は10歳にも満たない子供だったのである。よく考えたら、そんな幼少時の記憶が、事実をそっくりそのまま残しているわけがなかった。
 父はふむ、と頷いて記憶を遡るような体で中空に目をやる。
「じゃああのとき中学生の男の子に助けて貰っただろう。あれは?」
「ああ、それは覚えてるよ」
 そう答えつつ、あの男の子は中学生だったのか、と典子は苦々しく考えた。記憶を掘り返していくごとに判明する自分の思い出の穴ぼこ加減に、頭を覆いたくもなってくる。仮にも初恋の思い出だというのに、足りないところが多すぎるのではないだろうか。
 父は「流石に覚えているか」と笑って、ついと人差し指を立てた。
「出展していた自分の作品を見に来たんだと言っていたなぁ、あの子も」
「ふうん。そこは全然覚えてない」
「お前なぁ」
 あっけらかんと言う典子に、父は苦い顔をした。まあ、娘の好きな水彩画を見せようとわざわざ連れていったのに、ほとんどのことを「覚えていない」で返されたらそんな顔にもなるだろう。
「あの年のコンクール、お前が担当してるっていうあの先生も出してたんじゃなかったか?前に経歴を調べたら、何かの賞を貰っていたように思うが」
「え?寶田さん?」
 典子が聞き返すと、父は「そうそう寶田先生だ」と掌を拳で打った。まさか、と典子が笑うが、父はまじめくさった顔で「嘘じゃあないぞ」と返す。
「調べてみるといい。14年前のコンクールだぞ」
 そう言い置いて、父はソファーから立ち上がって部屋を出ていった。おそらくはキッチンの母の様子で
も見に行ったのだろう。廊下を遠ざかっていく父の足音を聞きながら、典子はひそかに眉を顰めた。
 ――そんなまさか、あるわけがない。寶田と自分の間に、そんな妙な縁があるわけが。
 しかし疑念は消し去ることが出来ない。そんなわけがない。それならばもしかして、もしかすると。

 典子の初恋とは。


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