秋霜 | ナノ


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「ストレス性の自律神経失調症だそうで」
「……それって俺に言っちゃっても良い話?」
「大丈夫です、庄野先生にもお知らせしておきますねって寶田さんに言っておいたので。……すごく嫌そうな顔してましたけど」
「それはまあ、そうだろうねぇ。りっくんプライド高いから」
 画廊に作品を納入しにきた庄野は、出された茶を啜りながら苦笑した。鷲沢が言うには庄野もよく寶田の家に出入りしているということなので、伝えておこうと思ったのだ。寶田は鷲沢画廊の大事な画家なのだ、何を使ってでもサポートをするのが画廊の役目である。……同じ画家の庄野まで使うのは、些か違うような気がしているが。しかし目の前の日本画家は見た目通り面倒見の良い男なので、典子がとやかく言わずとも、寶田が体調を崩しているという話が耳に入った時点で様子を見に通うであろうということは簡単に予測できた。
「この間の個展のストレスだろうってお医者様も言ってましたし、寶田さん本人もそうだろうって言うので、すぐに良くなるとは思うんですけど」
 倒れかけた寶田を病院に連れていった後、典子は診察室にまでついていこうとして寶田に叱責されたことを思い出す。曰く、「君は俺の親か何かか」と。そんなことを言ったって心配なのだもの、と典子はそんなことを思い出して知らず唇を尖らせた。
「典ちゃん、りっくんのお母さんみたいだなぁ。りっくん怒ってなかった?」
「怒られました。君が相手にしてるのは大きな子供か何かかー、って」
 そんなつもりは無かったんですけど、と典子が言うと、庄野はまた笑って「昔からそうだから」と言った。
「中学の時もさ、面倒見のいい女の子がいて。りっくん、結構叱りとばして追い返してたなあ」
「はあ……でも、あんな人として大きく抜けた人がいたら面倒見たくもなりますよ。放っといたらどこかで倒れて死にそうじゃないですか」
 典子が苦虫を噛み潰したような顔で言うと、さもありなん、と庄野が笑った。聞くところによると庄野の生活もあまり健康的とは言い難いようだったが、その庄野が言うにはある程度の不摂生は職業病のようなものなのだという。曰く、「画家の体は絵を描くための道具であり、画家の精神は芸術の奴隷なのだから、健康的な生活は絵のために後回しにされて然るべきもの」なのだと。それで体を壊して絵が描けなくなっては本末転倒であると典子は思うのだが、どうやら絵描きの感覚は典子のような鑑賞専門の人間とはまた違うものらしい。
「お医者様が、一人暮らしならご実家にも知らせておいた方が良いですよっておっしゃって」
「へえ。……で、寶田家には連絡したの?」
「いえ。寶田さんが、それだけはやめろって」
「あー、だろうね。病気だなんて言ったら、実家に連れ戻されるだろうし」
「そう、なんですか?」
 典子の頭を、上品な婦人の姿が過った。
「りっくんさ、少し不安定なところあるでしょう。今だってご両親は独り暮らしに反対してるはずだよ」
 ひとくち、庄野が湯呑みから茶を嚥下する。その表情は常になく陰っていて、典子はひたりと息が止まる思いがした。庄野のこんな表情は見たことがない。庄野は眦を下げて典子を見遣り、ことりと湯呑みを卓上に戻した。「考えたこと無かった?」と微苦笑を浮かべる庄野が、常とは違う人間のように見えた。
 典子はゆるゆると首を左右に振る。庄野が「うん」と笑って頷く。その声に普段のあたたかみを見出して、典子はふと人心地ついたような気分になった。どうやら典子は案外、庄野薫という人間のその人当たりの良さに精神的に頼っている部分があるらしかった。
「今回だってそうだろ。俺は医学のことよく知らないけど、ストレス性の自律神経失調症って、鬱病の一歩手前なんじゃあないの」
「……どう、なんでしょう」
 肯定は出来なかった。それは典子もまた医学に明るくなかったのもあるし、ここで頷いてしまうことで何か、何か今まで信じてきたものとの決別を認めてしまうようで、恐ろしかったのもあるのかもしれない。
 庄野がまっすぐに典子を見ている。「ああ、この人はもう決別したのだ」と典子は確証もなく思った。典子が恐れている何かとの決別を、庄野はもう既にどこかで済ませている。そう感じた。
「思うにさ。俺が思うにだよ。勝手な推論でしかないけどさ」
 そう前置きして、庄野は言う。
「あまり人前に出るのが得意じゃ無いでしょう。あれ、単なる人見知りじゃあないんだと思う。どういう経緯があってそうなったのかは知らないけどさ、あれは多分、人に嫌われるのが恐いんだよ、極端に」
 極端に、の部分を強調して、庄野はそう言葉を切った。典子は何も言わない。何となく、言葉を挟むのが躊躇われた。
「特に女の子には顕著だと思うよ。普通、あんなにタイミング良く相手の求めてる言葉を言える?一度会った相手のコーヒーの好みなんて覚えてる?相手が誰であっても歩幅をあ
わせて歩くなんて出来る?」
「――……」
 答えられなかった。言うべきではないと思ったのではなく、言うべき言葉が見つからなかった。ただ単に、洞察力が鋭くて、記憶力が良くて、根は優しい人間なのだと思っていた。違うのだろうか。庄野には、そうは見えていないのだろうか。
「俺のコーヒーの好みは何回話しても覚えないんだ。女の子にだけ、あいつは理想の王子様として振る舞ってる。無意識にだろうけどね」
 庄野が湯呑みを手にして、中身を軽く揺らした。中の茶がちゃぷんと小さく音を立てた。コーヒーには砂糖1杯半。1杯だと苦くて、2杯だと甘すぎるからと。庄野がそれを言ったときダイニングテーブルにはシュガーポットが乗っていた。典子が行ったときには絶対に出てこない、青い陶器の器が。
「あいつはきっと、女が恐いんだろうな。どうしてああなったのかは俺には分からないけど、あいつがどれだけ普通と違うのかくらいは推測できるよ。自分の母親に人見知りする人間なんて、俺はあいつ以外に俺は知らない」
 典子はただ、目を見張って庄野を見ていた。その切れ長の目から、視線を引き剥がすことが出来ない。その朗らかな日本画家の、痛みを堪えるような、まるで血が滲み出すような笑みを、典子は今まで知らなかった。


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