桃の香よ


 屍の海を順慶は歩く。手にした大きな鋏は赤く染まっている。
 これだけの命を、自分が奪った。
 順慶の胸に暗く冷たい幕が下りる。地面に置いた鋏の代わりに数珠を取り出すが、やはり重い。
 目を閉じ、手を合わせた。鉄臭さが瞼の裏を突き抜けて伝わってくる。殺された者が殺した者に念仏を求めるはずがないと順慶自身が思っている。しかし同時に、今はこの程度しか罪滅ぼしが出来ないとも悟っていた。
 何かが動く音が聞こえ、順慶は反射的に目を開いて振り向いた。屍の中で蠢き立ち上がるものがある。それは順慶に刃を翳していた。咄嗟に鋏を掴もうと伏せた順慶だが、そこへ最期の力で刀が振り下ろされる。
 ガキィ、と鈍い音がして、刀が飛んだ。弾き飛ばした斬馬刀はそのまま死に体の男を切って捨てた。男は、完全に息を止めた。
「左近」
 順慶は目を細めて斬馬刀の持ち主を見つめる。周囲を見渡して安全を確認した後、左近は順慶に声をかけた。
「ご無事ですか、殿」
「ええ……」
 左近の頬は返り血で赤く染まっている。順慶の眼差しはそこに注がれていた。左近もそれに気付き、目を逸らしてから頬を拭った。代わりに腕が赤く染まる。
 黙って俯いた順慶に遠くから石舟斎が駆け寄る。静かに刀を握る剣豪もまた血に濡れている。
 足元には屍がある。そしてそれを作ったのは、作らせたのは自分だ。順慶は小さく首を左右に振った。当然ながら屍が消えることはない。
「……行きましょう」
 声は震えていた。

 花の香に抱かれて順慶は眠る。枕の傍には常に花の生けられた一輪差しが置かれている。今は、折れてしまった細い桃の枝が挿れられている。小さな薄紅の花が、順慶を優しく見守る。
 血腥い記憶を、花の香だけが忘れさせてくれた。
 壁一枚隔てて主の眠りを護りながら、左近と石舟斎は声を潜めて語り合う。
「やはり、殿に戦場は向いてませんね」
 左近が言うと石舟斎は頷いて同調した。燭台が厳かに二人を照らす。
「乱世を生きるには、あまりにもお優しい」
「ま、それが殿のいいところでもあるんですが。殿のお手を煩わせないためにも、俺達がしっかり働かなければいけませんな」
 左近はきっちりと閉じられた襖の方へ目を遣った。
 花の香に撫でられている間は、順慶も悪夢を視ない。逆に言えば、そうでもしなければ戦の紅に塗り替えられてしまう。生まれてきた頃から常に戦と共にあった順慶は、そうした記憶に怯えるような臆病者ではない。だからこそ二人は気を揉んでいる。
 石舟斎などは順慶の父に敗れてから筒井に従い、以来主が幼い順慶となった後も仕えている。筒井家臣の間ではあまり信用されているとは言い難い。それでも順慶は別け隔てなくその暖かい眼差しを向ける。
 まさしく花のような人だ、と義理の父子は思っている。
 その花が散らされそうなこともあった。まだ藤政を名乗っていた頃だ。居城を松永の軍勢に襲われ、命からがら落ち延びた先で左近と再開した藤政の目には涙が滲んでいた。
 筒井城が落とされたその日、左近は他で戦をしていた。知らせを受けて戻ったときは藤政も落ち着きを取り戻していたように見えたが、左近以外を下がらせるとすぐに瞳を潤ませ、左近に縋り付いた。
「さ、こん」
 驚く左近だが小さな肩をしきりに震わせる主を突き放すわけにはいかない。腕を回し、背中や首の辺りをそっと撫でる。堰を切ったように藤政の涙が溢れた。
「恐ろしいものだと、思いました」
 嗚咽混じりに藤政は言う。左近はそれを黙って聞いている。
「戦を、人を。恐ろしく感じました。上に立つものとして、私は……未熟です。だから、何も守れなかった……」
「殿……殿はまだ、子供です。その小さな手で守れなかったとして、誰が責められるんですか」
 大きな掌でそっと藤政の手を包み込み、左近は囁く。藤政は目を閉じ、首を左右に振っていたが、やがてまた左近を見上げた。涙はもう流れない。
「私は……もっと強くなります。取り戻して、守るために」
 暗かった瞳には光が宿っている。微笑もうとした左近に、藤政は続ける。
「力を貸してください、左近。貴方の力は私のために使うものではないとわかっています。ですが……」
「いいや」
 藤政の言葉を遮り、左近は今度こそ微笑んだ。
「俺はアンタのためにいるんですよ。アンタだけのためにいるんです」
「左近……」
「殿が無事なら、それでいいんです……。今はただ休んでください。俺はここにいますから」
 それから藤政はゆっくりと眠りについた。左近は暫く腕の中で抱いていた。
 あれから時は経ち、世は未だ戦乱にあったが、筒井を取り巻く環境は落ち着いてきている。
 戦から数日経ったある夜、順慶は左近を呼び出した。
「眠れないのです」
 そう話す順慶の傍に花はない。枯れてしまったようだった。
 敷かれた布団の上で抱きしめ合い、唇を吸う。軽く重ね、また離し、再び求める。浅い口付けだけを繰り返す。腕の中に収まる身体は子供の頃と然程変わらないのではないかと錯覚するほど細い。自覚しているので、順慶もあまり身体を見せようとはしない。
 そっと布団に押し倒すと、順慶は微笑んで左近の頬の傷へ触れた。
 事が終わると順慶は力尽きたのかすぐに寝てしまう。こうした関係も昨日今日ではなく、藤政から順慶へ変わるか変わらないかの時代から続いている。今でこそ終わってから眠るようになったが、初めは最中に気を失うことも多かった。
 左近も寄り添って目を閉じた。
 翌朝、順慶は身体を引き摺りながら庭に出た。伸びた枝を鋏で切り落とす。鉄が太陽を反射し、きらきらと光る。順慶はぼんやりとそれを見つめた。鉄の色に混ざって朱がちらつく。瞬きして見ると、やはり鉄は鉄のままだ。
「早いですな、殿」
 声をかけた左近は、忘れていましたよと続けて順慶の頭へ笠を被せる。
「左近、もう起きたのですか。おはようございます」
「おはようございます。身体はよろしいので?」
「ええ、昨夜はよく眠れました」
「……いや、そっちの心配じゃあないんですが。まあ、寝られたならよしとしましょう」
 苦笑する左近に、順慶が柔らかい微笑みを向ける。その奥に何かあるような気がして、左近はふっと首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「……私を眠らせるため、だけですか?」
「あ……いやあ……」
 順慶は相変わらず微笑んでいる。髪を掻き上げる左近はしかし、それが順慶のちょっとした悪戯心だと知っている。だから、笑い返してやった。
「俺の身も心も、アンタのものですよ、殿。あの頃から変わらず、ね」
 朝日の中で、触れるだけの接吻を交わす。左近は鼻をくすぐる匂いに気付いて順慶から目を逸らした。桃の花が咲いている。
 ふと、順慶の生まれを思い出した。
「じき、桃の節句ですな」
 順慶は笑って、はいと頷いた。
 やはりこの人に赤は似合わない。似合うのは、良い香りのする薄紅色だ。
 そう思った左近は、この主が安らかに過ごせる世を改めて強く願うのだった。




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