千鳥足


 袈裟に瓶を抱えた和尚は足早に路地を駆け抜ける。
「お好きだと……」
 そう酒瓶を渡した女性は遠慮がちに笑っていた。仮にも相手は住持、酒はよくないだろうかと思いながら差し入れたのだろう。だが当の安国寺恵瓊は上機嫌に酒を受け取り、それを手土産に毛利へ顔を出すと決めた。
 そんなわけで今、前当主元就の屋敷を堂々と歩いている。自ら禁酒を掲げているものの、元就も呑める方だ。せめて一口でもと元就にも声をかけることにし、トタトタと歩く。途中で騒がしさに庭を見れば、三兄弟が夕暮れと戯れていた。
「隆景、そっち行った!」
「おかしいですね、こうすれば捕まると思ったのですが」
「き、木に登っちゃった。危ないから下りておいで……」
 三毛猫を追い回している。恵瓊は足を止めて顎に手を添え、ふうむと唸る。
「元春様、もう少し木の傍へ」
「あん?」
 突然聞こえた恵瓊の声に元春は眉を顰めたが、取り敢えず言う通りに猫の登った木へ近付いた。さらに恵瓊が声をかける。
「そこから半歩右へ、隆元様は猫を呼んでください」
「え? あ、うん、おいで」
 隆元が高くの猫へ手を差し伸べる。すると猫はひゃっと怯えるように飛び上がった。枝から足が外れる。そのまま猫は宙へ浮かび、待ち構えていた元春の腕へ収まった。間があって、おお、と誰かが洩らした。目を細めたまま恵瓊がにやりと微笑む。
「その動き、予見通りでしたよ」
「悪いな。急に暴れだしちまってよ」
「どうやら隆元様を怖がっているようですね」
「わ、私を?」
「そういえば、逃げ出したのは兄上が部屋に入ってすぐのことでしたね」
 隆景が指揮を執るように鉄鞭をすっと回す。どちらかと言えば恐怖を抱く対象はこの隆景なような気がしたが、それを考えた隆元も恵瓊も口にはしない。すればどうなるかよく分かっている。腑に落ちない隆元の背中をぼんやりと見つめてから、恵瓊は今日の用事を三人に話した。
「酒か。悪くはないが、今日こそ帰るって嫁に言っちまってな」
 と元春は笑い飛ばし、
「私も遠慮しておきましょう。兵法書を読まなければいけません」
 と隆景は丁寧に首を振り、
「ごめん、輝元と約束してるから……」
 と隆元は申し訳なさそうに肩を落とす。
 では輝元様もいけませんね、と恵瓊は指折り数え、三人と別れて大殿の部屋を目指した。後ろから猫がついてくる。恵瓊は振り向いて「何か視えましたか?」と問いかけた。猫は恵瓊を追い越して障子の隙間から薄暗い部屋に入っていく。
「やれやれ、私のことは気にも留めてくれないのですね」
 苦笑しながら後を追う。元就は普段通り本の海に埋もれていたが、猫はお構いなしにその膝で丸くなる。にゃあ、とやっと鳴いた。
「急にどうしたんだい?」
 本を傍に置いて代わりに猫を撫でながら、元就が肩越しに問いかける。恵瓊は酒瓶と共に経緯を説明した。だが案の定というべきか、元就は難色を示す。
「うーん、生憎だが、酒は呑まない主義なんでね」
「存じております。……となると、困りましたね。先程隆元様たちにもお断りされたばかりで、この瓶を一人であけるのは流石に……」
「ああ、そういえばあの子が暇そうにしていたよ」
 元就は途中から本に視線を戻し、適当に紙を捲りながらそう言った。恵瓊もすぐに察し、では声をかけてみます、と答えて書庫を出た。だが声をかけたところで相手が喜ぶとはとても思えない。
 もう一度元春に逢い、息子の所在を尋ねた。
「広家ならさっき隆景に説教食らって、閉じ込められてるとこだ」
「……はあ」
 どうやらふらふらと出歩いて隆景の逆鱗に触れてしまったらしい。ならば良い慰めになるかもしれない。暫くは出られないだろうという元春の情報を元に、盃と肴を用意した。
 小脇に酒瓶を抱え、両手でお盆を支えながら恵瓊はおぼつかない足取りで懲罰房と化した離れの小さな納屋を目指す。本来は元就の本を片しておく場所だったと記憶しているが、その目的で使われることがなかったから今は隆景のお仕置き部屋として使われている。
 一度酒瓶だけを地面に下ろし、お盆を右手で持ち直してから左手で戸を叩いた。返事はないが気配はある。鍵はかかっていなかったのでそのまま戸を押した。鈍い音と開く戸は納屋に光を差し込ませる。中ではひとつの燭台だけが明かりを灯していた。
「坊主が何の用だ」
 広家は胡座をかいたまま眉間に皺を寄せた。不快感をみじんも隠そうとしていない。恵瓊はお盆を板に置いてから外の酒瓶も持ち込み、掲げた。
「一杯、いかがですか?」
「ふざけんな、何でこんなとこで……」
 悪態をつこうとする広家の視線はお盆に乗せた大根の煮物に注がれている。その間にも恵瓊は封を切って盃に酒を注いだ。仄暗い火が写り込む。
「まあまあ、皆様に断られて私も少々落ち込んでおります。ここは傷を癒やすといたしましょう」
「……ふん」
 広家は恵瓊の手から盃を乱暴にひったくり、ぐいと一息に飲み干した。気持ちがいいですねえと恵瓊が笑う。口を離し、広家はゆっくり息を吐いた。顔を上げ、恵瓊を睨む。
「酒と食いもんに罪はねえからな」
「その言葉、予見しておりましたよ」
 日は沈んで月に傾く。
「今度は何をやらかしたのです?」
「別に。外出て、……ちょっとやりあっただけだ」
 恵瓊の酌を受けながら広家は顔を背ける。
「なるほど、それで叱られたわけですね」
 今度は自分の分を注ぐ。飲み始めて少し経つが、広家の消費量に比べて恵瓊はあまり呑んでいない。その上肴にもあまり手を付けず、自分が誘ったくせにと広家は不満気に盃を煽る。
「大したこたぁしてねえ。過保護すぎんだよ叔父上は」
「それは、隆景様にお伝えしても?」
「いいわけねえだろ。口の軽い坊主だな」
 三白眼にぎろりと睨まれ、恵瓊は肩をすくめる。
「冗談ですよ」
 飲み切るためにくっと顎を上げると、青い帽子が揺れた。箸を咥えた広家が手を伸ばす。恵瓊は少し驚いて身を引いた。広家の怪訝そうな瞳が薄い視界に捉えられる。
「てめぇ、いつまで帽子被ってやがんだ」
「いつまで、と聞かれましても」
「大体そりゃあ外で被るもんだろ」
「もう酔ってしまわれましたか」
「うるせえ、いいから取れ」
 途中で自分でもじれったくなったのか、広家は逃げようとする恵瓊から無理矢理帽子をふんだくった。押さえつけらていた髪がふわりと広がる。恵瓊はそれを撫でた。
「どうも、落ち着きませんねえ」
 眉を下げ口元を緩める恵瓊に広家は眉間の皺を深くする。ずいと顔を寄せられ、恵瓊はさらに下がった。気がつけばお盆に乗せられていた皿が空になっている。
「俺ぁてめぇのその顔が気に入らねえんだ」
「生まれつきなものでして」
「うるせえ」
 怒鳴り、広家は酒瓶を手にする。何をするのかと観察する恵瓊に広家は酒を注いだ。
「もっと呑みやがれ」
 やれやれ絡み酒ですか。苦笑を重ね、ちびちびと啜る。こうなると自分の方も気分が乗ってくる。どうせ相手も酔っていることだからと互いに酌を交わす。
 不意に身体から力が抜け、恵瓊は壁に寄りかかった。隙間から漂う虫の声に耳を貸す。リィ、リリィ。鈴のような声を聴いて恵瓊はくすくすと笑う。
「何だ、気持ち悪い」
 至って平静な様子で広家が罵る。だが恵瓊はお構いなしに笑っていた。へにょりと眉を下げ、目を閉じ、口を開いたまま緩め、頬を紅に染め。広家は思わず杯を置いた。平常から笑っているとはいえ、ここまであどけない笑顔は目にしたことがない。素面に戻りつつある広家の前で恵瓊はへなへなとした微笑みを見せている。
「いやあ、美味しいですねえ」
 満面の、とはまさにこのような表情につけるのだろう。緩く閉じられた目元に皺が浮き出ている。
「……歳食ってんだな、てめぇも」
「はい? ええ、ええ、それでも隆景様より年下なんですよ。お若いですねえ、皆様も」
「その上……」
 広家は正座している恵瓊を見上げた。恵瓊はにこにこと笑って次の言葉を待っている。
「……いや、いい」
 首を左右に振る。そうですか、と恵瓊の興味はすぐさま酒の方へ戻った。暫く無言のまま盃を空にした。やがて先に聞こえてきたのは、恵瓊の寝息だ。
 床に転がり、丸まって眠る恵瓊は今日見かけた猫とさほど変わらない。広家は帽子を拾い上げて恵瓊の額に被せ、軽くなった酒瓶を確認した。
「てめえの笑顔が作り物だってこと、よーく分かったぜ」
 帽子に手を乗せてぐりぐりと撫で回す。恵瓊は身悶えしたが起きる様子は見せなかった。片付けは後に回し、広家は恵瓊を担いで納屋を出た。空にはすっかりと月が昇っている。
 翌日、若干の頭痛を覚えながら広家が目覚めると、戸の隙間に紙が挟まっていた。
 折られていたそれを開くと、どこかで見たような達筆が一言だけ残されている。
「昨夜は申し訳ありませんでした。出来れば、忘れてくださると嬉しいのですが」
 欠伸と同時に背伸びをし、広家は手紙を読み返して、
「知るか。俺の自由だろ」
 と、丸めて捨ててしまった。
 庭で猫がにゃあと鳴いた。




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