薄暮に立つ


 蝉の羽音が箱庭に響く、真夏のある一日。

「左近、雨が降りますよ」
 筒井順慶はそう微笑み、島左近は空を見上げた。目に痛いほど眩しい青がこの大和を包んでいる。
「こんなに晴れているのに、ですかい?」
「はい」
 首を傾げる左近に、順慶は傾いた笠を直して口元を緩める。眉をハの字に下ろし、柔らかい眼差しを向け、順慶はいつも唇だけで笑っている。
「花が喜んでいますので」
 低木の葉をそっと持ち上げ、今度はそちらへ微笑みかける。左近は流石に苦笑した。殿の言動は、時々理解が及ばない。軍略だけでは役立たないのだ、と改めて思う。筒井に召し抱えられてからは新鮮な出来事が多い。
「女中にも声をかけて、干しているものがあれば中に入れるように伝えてください」
 命を下す主の顔には、とても冗談や勘だけで言っているものではないという意志が表れている。左近は困惑しながらも、女達にそのまま言伝した。
「順慶様が、ですか?」
 若い女はきょとんとして目をしきりに瞬かせている。俺にもよく分からないのですが、と左近は付け足した。納得の出来ないままではあったが、主の命を無下にするわけにはいかない。
 左近は順慶の元へ戻った。順慶はまだ外で花を眺めている。
「殿」
 そう声をかけたとき、空に不穏な音が走った。ゴロゴロと、地鳴りに騒ぐ。見上げると黒い雲がこちらへ向かってくる様子だった。
「こりゃあ……」
 はっと見た左近の前で順慶は微笑んでいる。
 滴が垂れる。左近は順慶を連れ、慌てて軒下に隠れた。滴は糸になり降り注ぐ。順慶の笠が僅かに濡れている。
「降りましたよ」
 雷雨の中で順慶は静かに口を弛める。左近は眉を潜めていたが、やがて表情を崩した。
「……参りました」
 熱風を晴らすように雨は降り続ける。あれだけ騒がしかった蝉もいつの間にか泣き止んで、粛々と恵みを受け入れている。
 二人は漸く建物へと逃げ入った。

 暗い空が不意に光る。
 きゃあ、と高い声を上げて、蛍は雑賀孫市の背に隠れた。直後に雷鳴が蛍を襲う。上着を握られ、孫市は呆れたように頭を掻いた。
「おいおい、何びびってんだ?」
「だって、頭領ぅ……」
 また稲妻が空を裂く。蛍は飛び跳ね、孫市の腕に抱きついた。
「お前にくっつかれても嬉しかねえっての」
「……頭領は雷が怖くないんですか?」
「雷より雨を心配しろよ」
 こいつが使えなくなるからな――と孫市が手にした鉄砲の先端を扇いだ途端、待ちわびていたかのように雨が落ちた。
「こりゃまずいな……酷くなる前にどっかで……」
 顎に手を当て、孫市は周囲の地図を脳内に思い描く。見知った土地だ。記憶を選ぶ間にも足を進める。そうして辿り着いた先には簡素な作りの家があった。雨は酷くなり、もう随分と濡れてしまっている。孫市は遠慮する様子もなく家の戸を叩いた。
 少しして戸が開き、若く美しい女性が顔を出す。蛍はよく分からないまま眺めていたが、女性の方は孫市を認めて二人をすんなりと中に通した。
「まさかここ、頭領の……」
 濡れた服を引き摺って廊下を歩きながら蛍が声を潜めて言う。孫市はハッと笑い飛ばした。
「違ぇっつの。ダチの家だ。まあいっつも家には居ないんだが……」
 先導していた女性が立ち止まり、振り返る。
「そのままではお風邪を召されます。私のものでよければ着替えをお貸ししますので、どうぞこちらへ」
 そう言って蛍を自分の部屋へと連れて行く。孫市は別に案内された場所の戸を開いた。小さな箪笥と文机のみが並ぶ、質素な部屋。文机の前には一人の僧が座って書を嗜んでいたが、音と気配に気付いて孫市を見た。
「客人とはお前のことであったか」
「何だ今日は帰ってたのか」
 孫市は下間頼廉に笑いかけた。堅物の頼廉ではあるが、妻帯はしている。孫市は適当な服を借り、新しく袖を通しながら話を続ける。
「相変わらず美人だよなあ、お前の奥さん。相手がダチでなきゃ口説いてるところだ」
「程々にせねばいつか身を滅ぼすことになる。努々忘れるな」
「かーっ、真面目だねえ……人生楽しまねえと損だぜ?」
「程々にせよと言っている」
 そうしているうちに蛍が来た。控えめに花が散りばめられた、どちらかといえば地味な着物は、蛍よりも年上の女性が愛用しているものだと分かる。
「こんなにいいもの、ウチが着ちゃっていいんですか?」
「構わぬ。よく似合っている」
 頼廉は座したままさらりと褒める。蛍は頬を綻ばせた。だが落ちる雷鳴により、きゃんと鳴いてへたり込む。
「あれだけ間近で銃声を耳にして、雷は苦手なのだな」
「じゅ、銃はいつ撃つか分かるじゃないですか」
 そういうものかと頼廉は腕を組んで考える。
「……ああ、今夜は泊まってゆくと良い。どのみち服は乾かぬ」
 思い出したように伝えると、頼廉は書に向き合った。寛ごうと座り込んだ孫市の袖を、蛍がぎゅっと引っ張っていた。

 障子を隔てて、雨音を聴く。
「雨の中の読書。中々いいものじゃないか」
「雨じゃなくとも、お前はいつも読んでいるだろう」
 毛利元就はほんわかと笑い、弘中隆包は眉を下げて苦笑する。
 元就の書斎で二人は史料片手に歴史語りをしていた。途中で雷雨に襲われようと、どこ吹く風。閉め切った部屋は外界から切り離され、二人を過去の世界に閉じ込める。
「過去の詩人達も、こうした風情に心を動かされたのだろうね」
「雨も亦た奇なり、だな」
「しとやかな春や秋の雨が注目されがちだが、突如として降る夏の雨も良いものだ」
「ああ、そうだな」
 本を積み、笑い合う。友による至福の時間がゆったりと流れている。
「私の話を最後まで聞いてくれるのは君くらいなものだ。息子もみんな、すぐに飽きてしまってね……」
「お前の話は長いからな。一晩あっても足りん」
 歯に衣着せぬ物言いで隆包は切る。この旧友には遠慮がない。
「まあ、また頼むよ」
 元就はめげることなく言った。隆包が断れない性分であることはよく分かっている。
 その頃、屋敷の別室では、吉川元春が畳に寝転がっていた。
「あー……暇だ」
「外で稽古をつけられなくとも、やれることはあると思いますがねえ」
 傍の小早川隆景がちくちくと嫌味を吐く。元春は上半身だけを勢い良く起き上がらせた。
「わかってるよ。だが、身体動かすのが俺の仕事だろ?」
「文武両道、ですよ」
「そういうお前だって文だけじゃねえか」
 元春はにやりと歯を見せ、隆景は手にしていた兵法書を置いた。代わりに軍配を持ち出す。
「今、何と?」
 瞬時に一触即発の空気が生まれるが、この兄弟にとっては日常茶飯事だ。いつも通りのじゃれ合いを始めたところへ、毛利輝元が駆け込んできた。
「叔父上、叔父上ー!」
「何ですか騒がしい」
 元春との睨み合いを中断し、隆景は軍配をパンと掌にぶつけた。びくりと幼い輝元が萎縮するが、珍しくすぐに立ち直る。
「と、とにかく外へ来てください!」
 騒がしく出て行った輝元の背中を見て、両川は顔を見合わせた。
「何だ?」
「……取り敢えず、行きましょう」
「ああ、そうだな」
 喧嘩直前だったことも忘れ、輝元の後を追う。騒ぎを聞いて元就、隆包両名も部屋から顔を出していた。肝心の輝元は姿を消している。かと思えば、奥の方から不機嫌な吉川広家を率いて合流した。その更に後ろからは首を傾げた安国寺恵瓊が従う。
「これは、如何なる騒ぎで?」
「うるせえなあ、ったく」
 眉間に皺を寄せ、頭を掻きながら広家は輝元を睨んだ。だが輝元は知らぬ振りで、先に居た親の隆元の腕を取って庭から除く空を指さした。そのときやっと、各々は雨が止んだことに気付いた。

「左近」
 順慶は微笑んで花の傍に立つ。
「おお、これはまた見事な」
 左近は順慶の隣で眩しそうに目を細める。

 射し込む光に気付いた頼廉が、震えていた蛍の肩を叩く。
「もう雷は来ぬ」
 聞いた孫市は部屋を出て縁側を覗き、蛍を手招きする。
「来てみろよ、蛍」
 蛍は呼ばれたままに従い、空を仰ぐ。暗かった表情は途端にぱっと輝く。
「わあ……!」

「風転じて雲頭をさまり……」
 元就が諳んじれば、
「それは秋の詩だろう。だが、見事なものだ」
 と言って隆包が笑う。
「綺麗だね」
「これでやっと外に出れるぜ」
「また、兄上は……もう少し情緒というものをですね」
 隆元が天を慈しめば、元春がぐっと背伸びをし、隆景がその兄を諌める。
「広家殿、見えぬのですが」
 恵瓊は目の前に立つ広家を恨んで言ったが、
「ああ?」
 と理不尽に睨み返されて肩を窄める。
「喧嘩はよくないのです!」
 輝元は広家を叱り、それから顔を上げる。

「虹だ」
 そして、誰からともなく口にした。
 雨上がりの箱庭。その彼方には、大きな光の橋が包むように架かっていた。




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