君死に給うことなかれ


 安国寺恵瓊は息を切らして逃げる。
 あっという間に幕を下ろされた戦は敗北の二文字を西軍に与えた。そして恵瓊の背には死が付き纏うようになった。
 毛利は敗者となったが、同時に勝者にもなった。だが恵瓊は敗者側だ。それも責任を追った敗者だった。毛利の罪が全て自分の命一つで許されるならばと、覚悟は決めた。
 それでも、逃げていた。
 もう随分な老体だ。加えて元々戦のために育てられた身ではない。独りで逃げ続けるのも限界がある。恵瓊は草陰でぐたりと横たわった。追う音はまだ遠い。
 限界があるのは知っていた。逃げ切れないことも知っていた。先を視ることには長けている方だ。それでも恵瓊は時を見誤った。指示通りに事が運べば負ける可能性はなかったのに、と今更悔やんでも恨んでも仕方がないことではある。
 大いなる誤算。それは体内から肉を食い破り、恵瓊を追い詰める。
 蹄の音が近付いてきた。恵瓊は起き上がり、そのまま叢に身を潜めた。暫く待つとすぐ傍を馬が駆けていく。早くこの場所を離れてしまおう。そう思った瞬間、手が低木の枝に触れた。かさり、ざわめく。恵瓊はハッと唾を飲み込んだ。幸いにも追手は気付かずに通り過ぎていく。
 安堵したのも束の間。恵瓊はすぐに叢の奥へと駆け出した。相手が誰であれ見つかるわけにはいかない。逸る気持ちが枝に引っかかる。同時に、足音が戻ってきた。馬のものではない。人のものだ。だが恵瓊からすると同じことだった。逃げなければ。そう思う足には草木が絡みつく。
 見上げた目に、藪を引き裂く矛先が映った。
 不機嫌そうな表情で藪の中に踏み込んだそれは、木の幹に隠れるように立つと呆然としている恵瓊を見下ろした。恵瓊の笑顔がひくつく。
「広家殿……」
 冷たい瞳をした吉川広家は、恵瓊の誤算そのものだ。
 広家は槍を下ろし、屈んだ。逆の手には何やら包みを抱えている。
「よう。やっぱり居たか」
 抑揚の少ない声で恵瓊を呼ぶ。
「俺が、憎いか?」
 広家はじとりと恵瓊を睨んだ。恵瓊は静かに首を振った。左右に、何度か。広家はそうかと零し、恵瓊を縛っていた草木を切り払った。そのまま槍を恵瓊に向ける。
「俺ぁ謝るつもりはねえし、罪滅ぼしをするつもりもねえ」
「……ええ」
 恵瓊は土の上で居住まいを正した。細い瞳で広家を見つめる。
「こういう時、何に祈るべきなのでしょうかねえ」
「仏じゃねえのか」
「ごもっとも、ですね……」
 はは、と空笑いする。広家はちらりと後方を伺い、人の気配がしないことを確認すると恵瓊に向き直った。恵瓊は穏やかに微笑んだ。
「見つかってしまったからには、仕方がありません」
「分かってるなら話は早い。だが、毛利が今までお前に助けられてきたことも事実だ。だからせめて」
 広家は槍を掲げた。恵瓊は俯き、目を閉じた。膝の上で固く拳を作る。
 身体を槍が貫く。赤い飛沫が広家を汚す。倒れる姿を見遣り、広家はゆっくりと槍を抜いた。
 鋭い痛みに顔を顰め、刺された脇腹を抑えて恵瓊は蹲った。何故。問いかけたいのだが言葉が出ない。広家はそのまま、ボロボロになっていた袈裟を引きちぎった。それを丸め、恵瓊の傷口に押し当てる。
「いいか。よく聞け」
 耳元に言葉が寄る。広家は包みを指さした。
「ここに死兵から剥ぎ取った服がある。てめえはそれを着て逃げろ。何処でもいい。二度と逢わないところまで行け。その先は知らねえ。俺はその間に獣の血でも何でも、てめえの服に浸してやれるところまで誤魔化す」
「ひろ……」
「今のてめえはここで死ね。そのくらいの覚悟はあるだろ」
 傷は浅いようだった。
 恵瓊は広家をじっと見た。広家は口を閉ざし、これ以上を話そうとしない。生きていても今生の別れはあるものだ。別の覚悟を抱き、恵瓊は帽子を取った。

 山の中にある小さな寺で、若い坊主が老僧を覆う包帯の手入れをしていた。
「お身体の具合は」
 坊主が問う。老僧はにこりと微笑んだ。
「随分とよくなってきましたよ」
「そうですか。しかし無理はなさらないで下さい。貴方がここへ流れたのも何かの縁。いつまでも休んで構いませんので」
「ありがたいお言葉……」
 笑う老僧は心の底で考える。
 傷だらけの老兵を拾った住職は事情も問わずに手当てをし、寺に住まうことを赦した。住職もまた、憂いを湛えた瞳をしていた。
 どれだけ歩いたかは覚えていない。途中で世話になった寺社も一つや二つではない。それでも、この場所は落ち着きがよかった。西へ西へと歩いて辿りついた場所だからと、老僧は思い始めている。
 老僧は名前すら答えなかった。住職も特には名乗らなかったが、若い坊主は善超と名乗った。
 心地の良い生活を送るある日、寺を人が訪れた。
「なあ、ここに高森って人がいるって聞いたんだが……」
 外から聞こえてくる声に老僧は耳を澄ます。応対していた坊主は客人を中に招き入れた。近付いてくる世間話に、確信する。老僧は思わず部屋を飛び出し、客人の前に立ちはだかった。客人は目を丸くして老僧を見下ろした。
「……てめえ、何で……こんなとこに」
「貴方の方こそ、どうして……」
 沈黙した二人の間で坊主が困ったように立ち尽くす。
「……生きてたんだな、ちゃんと」
 岩国藩の藩主はくっと笑った。老僧もつられて微笑む。
「寺を建ててえんだ。そこに、出来れば高森殿を呼びたい」
「きっと、良い答えがあることでしょう」
 それ以上の言葉を交わすことはなく、二人は別れる。客人を通した後で坊主は老僧に聞いた。
「お知り合いだったのですか?」
 老僧はにこりと微笑んで答える。
「生前の話ですよ」
 首を傾げる坊主は住職に呼ばれ、部屋を出ていった。
 老僧は一人で目を瞑り、自分に名があった頃を思い出して、小さく笑った。




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