ゆりかご | ナノ

ゆりかご


 開いた戸の先からは微かに鼻歌が聞こえる。
 慎重に足を踏み入れた呂蒙は、目の前に広がる光景に思わず持っていた竹簡の山を床に落とした。ガラガラと音がして書が広がる。途端に響く、赤子の泣き声。
「おお、よしよし……全く、漸く寝付いたところだったんだぞ」
 布に包まれた赤子をあやしながら魯粛は呆れたように眉を顰めた。慌てて竹簡を拾い集める呂蒙を横目に、泣く赤子に頬を寄せる。
「も、申し訳ない」
「それは適当なところにでも置いてくれ。後で読もう。今は手が離せんのでな」
 言われた通りに棚の上へ竹簡を積み、呂蒙は改めて魯粛の姿をまじまじと見つめた。生まれて間もないであろう赤子を腕に抱き、優しく背を叩く。先程聞こえた鼻歌は子守唄の代わりだったのだとここで気付いた。
 やがて赤子が泣き止むと、魯粛は寝台に腰掛けた。片手で自分の傍を叩き、立ち竦む呂蒙を誘う。流石にそれは、と遠慮する呂蒙を視線で黙らせ従わせる。
「その赤ん坊は、魯粛殿の……」
「知り合いの、子供だ。預かるのは今日限りだが、中々可愛いものだろう?」
「はあ……」
 呂蒙はぽかんと口を開き、首を傾げる。その姿を魯粛は笑い飛ばした。
「わざわざ俺がすることじゃないと思ったか?」
「貴方は人が好すぎるというか、何でも請け負いすぎですぞ」
「はっは、別に断る理由もないからな。頼れるものは頼るべきだ」
 からからと笑う魯粛の腕で赤子は瞬きをしている。呂蒙は苦笑した。
「いやあ、俺はてっきり魯粛殿の子かと」
「俺の子ならばとっくに紹介していたとも。子供は誰でも可愛いものだ。抱いてみるか?」
「はっ、いや、俺は」
 両手を左右に振って動揺する呂蒙に構わず魯粛は笑いかけ、大人しくなった赤子を渡そうとする。しかし呂蒙が尚も頑なに拒むので、面白くないと唇を尖らせ顎に手をあてる。
「赤子の一つ抱けないでどうする。それとも、阿蒙にはまだ早いか?」
 今度は呂蒙の片眉がむっと吊り上がる。こういう単純なところも嫌いではない――魯粛はほくそ笑む。
「そ、そんなことはありませぬぞ」
「ほう、では試してみるといい。首はまだ据わっていないから、そこだけ気をつけろよ……」
 ゆっくりと魯粛が赤子を手渡し、呂蒙はそれを恐る恐る受け取る。あまりに呂蒙の顔が強張っているので魯粛は噴き出しそうになるのを堪えた。感触の変わったせいか、赤子はきょとんとした目で呂蒙を見上げている。そして顔を歪め、泣き喚いた。わたわたと慌て始める呂蒙、とうとう噴き出す魯粛。
「魯粛殿!」
 焦る声で呂蒙は魯粛に助けを求める。魯粛はひとしきり笑うと、呂蒙の肩に片手を乗せた。
「まず顔が怖い。緊張しすぎだ。それでは赤子も怖がるだろう」
「しかし……」
「笑え、呂蒙」
 魯粛は身を捻って乗り出し、呂蒙の両頬を抓った。
「ろ、ろしゅくろの」
 回らない呂律でされる抗議も気にせず頬を揉み、ぐいと上に引っ張る。口に指が引っ掛かり余計に喋ることが出来ない。
 赤子の泣き声はいつしか明るい笑い声に変わっていた。
 魯粛は再び子供を抱いて立ち上がり、赤くなった頬を抑える呂蒙を見下ろした。呂蒙はまだ納得のいかない顔で魯粛を見上げている。
「赤子は周りの環境に敏感だ。お前が緊張し、かつ作業的になればそれを感じ取ってしまう。自分が嫌われているのではないか、とな」
 眠りについたのを見届け、魯粛は赤子を自らの寝床に横たわらせた。その上で呂蒙の隣に座り直す。
「まだ不服か?」
「不服というわけでは……」
 呂蒙は軽く首を左右に振り、視線を落とした。師に見つめられたまま唇を震わせる。
「ただ、魯粛殿からすれば俺もその赤子と同じなのだろうと……」
「うん?」
 聞き返す声に呂蒙は返事をしない。魯粛は顎髭を触り、ふむ、と鼻を鳴らした。
「ある意味では、そうかもしれん」
 ぱっと呂蒙が顔を上げる。魯粛は目を細め、緩く微笑みを返す。
「素直で知識をしなやかに吸収し、育ちが早い。そういう点では、お前もその子も変わらんな」
 呂蒙の髪に手を伸ばし、くしゃりと撫でる。そのまま掻き混ぜると呂蒙は露骨に嫌な顔を見せた。眉を下げ頬を僅かに赤く染める。
「しかし俺は、いつまでもそのような子供でいるわけにはいきませぬ」
「ああ、いつかは俺を超えてもらわなければ困る」
 魯粛は眉を垂れ、唇を緩ませて、窓から射し込む光を頬に受けた。呂蒙の瞳にその姿が映り込み、揺れる。柔らかい光を浴びた魯粛は一瞬だけ目を見開き、首を左右に小さく振った。呂蒙が首を傾げる。
「どうか……」
「いや、何でもない。少々眩しくてな……」
 窓の方へ目を向けるが眩しいと感じる程の日差しではない。むしろ暖かい、心地の良いものだ。目眩でも覚えたのだろうか。そうは思うが呂蒙もそれ以上の詮索はしない。
 魯粛はおもむろに立ち上がり、棚に積まれていた竹簡を一つ手に取った。開こうとする手を慌てて追った呂蒙が止める。
「もう少し、休んだ方がよろしいのでは」
「その必要はない」
 きっぱりと断る魯粛だったが、呂蒙は問答無用でその腕を引き、力尽くで椅子に座らせた。これには魯粛も目を丸くする。
「休んでください」
 腕を組んで仁王立ちする呂蒙の眼には頑なな決意が迸る。魯粛は暫くそれを見つめ、机に頬杖をついた。
「これでは……」
 俯き、くつくつと笑う。夢をみる赤子は布の中で身を捩らせている。
「俺の方が子供のようではないか」
 魯粛は背凭れに身体を預け、天井を仰いだ。感じた身体の違和感は然程重いものではないが、すぐに抜けるものでもない。
「まあいい。その子が起きるまでは、お前に従うとしよう」
 凭れたまま目を閉じる。身に入る影響が薄くなっただけでも幾分か心は楽になる。
 呂蒙は満足気にそれを見届けると、窓の外へ目をやった。日差しはやはり柔らかく、眠る赤子を抱いていた。




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