輪り廻る | ナノ

輪り廻る


 ぽりぽりと、煎餅を齧る。
 穏やかな昼下がり、安国寺恵瓊は貰い物の煎餅を縁側に座して食べていた。一口齧る度に焦げ付いた醤油の素朴な味わいが口に広がる。
 たまにはこのような暇も良いでしょう。
 泰平の先に何があるか――恵瓊の瞳にはそれが視えている。遠くない日に大きな戦が待っているだろう。だからこそ、休暇を楽しもうとしていた。
 ふわりと生暖かい風が恵瓊の帽子を攫う。恵瓊は小さくなった煎餅を口に押し込み、飲み込んでから、首を傾げた。
「おやおや」
 さっと庭に飛び降り、帽子を追う。ひらひらと舞う帽子は枯れ木の枝に引っかかり、恵瓊には届きそうもない。梯子を持つか、あるいは。思案する恵瓊だったが、どのみち一人では取れそうになかった。
 そういえば昔にも。
 思い出して、恵瓊はくすりと笑う。

 手を伸ばし、跳び上がっても帽子には手が届かない。まだ子供だった頃の恵瓊は青々と茂る葉を見上げて途方に暮れた。住職に相談しようにも今はちょうど外出している。
 木を登るのが一番早いだろうか。そう思った矢先だった。
「どうしたの?」
 淡い声が降りかかる。聞き覚えがあったので恵瓊は警戒もなく振り向いた。前髪で顔を隠した若い優男は恵瓊を見て微笑んでいる。
「隆元様」
 首を傾げる隆元にその面影は薄いが、恵瓊は彼の素性を知っている。毛利元就の長男。恵瓊にとっては仇でもある。しかし私怨ではない。幼い自分には関係ないことだ、と恵瓊は笑みを返す。
「少々困ったことになりまして……」
 恵瓊が木を見上げ、隆元もその視線を追う。風に煽られて葉と共にはたはたと揺れる帽子を見つけ、隆元は状況を理解した。顎に手を当て、困ったように唇を尖らせる。
「うーん……ちょっと、た、高いね」
「大事なものというわけではないのですが」
 落ち着かないだけで、と恵瓊は自分の頭を撫でる。考え込んだ隆元にどう声を掛けようか迷っていると、そこへ更に二人の少年が駆けてきた。
「どうしたんだよ、兄貴?」
 活発そうな方の少年が隆元に声をかける。大人しそうな方の少年は恵瓊を見てぺこりと頭を下げた。どちらも恵瓊よりは大きい。
「あ、えっと……」
 恭しく帽子を指差す隆元に、活発な少年は元気に頷いて、
「あれ取ればいいのか? よし、俺に任せておけ!」
 さっさと木をよじ登ってしまう。危ないよ、と隆元が下から叫ぶのも聞かない。ふと恵瓊がもう一人の少年を見ると、そちらは冷ややかな目で頭上を見ていた。
「よっと」
 枝に乗って手を伸ばし、帽子を取ると、軽々と木から滑り降りる。手渡された恵瓊は一礼してから帽子を被った。
「ありがとうございます。貴方がたは、隆元様の……」
「お、弟だよ。こっちは元春」
 木から降りたばかりの少年が白い歯を見せて笑う。
「私は隆景です。兄がいつもお世話になっていると聞いています」
 何処か落ち着いた雰囲気を纏った少年は末弟らしかったが、恵瓊には最も大人びて見えた。
「生憎ですが、和尚は出かけております」
 事務的な挨拶をする恵瓊は、腹の底で、このように軽々と出歩いていいものなのだろうかという疑問を抱えた。三人とも、毛利に取っては重要な人間だ。恵瓊の懸念を余所に隆元は微笑む。
「う、うん。それは知ってるんだ。今日は、別の用」
「別の? ……取り敢えず、お入り下さい。客人を立ちっぱなしにさせたままでは私が叱られてしまいます」
 にこりと笑って、恵瓊は三人を寺の中に招き入れる。
 恵瓊が茶を淹れて運ぶと、隆元は隆景に小さな荷物から風呂敷包みのものを取り出させた。しゅるりと風呂敷を解き、中から現れたのは箱に入った数枚の煎餅だ。
「これは?」
 首を傾げる恵瓊に前のめりの元春が答える。
「おう、貰い物なんだが、兄貴がたまに出かけてる寺に小僧がいるって聞いたからな。挨拶代わりに分けに行こうって話になってよ」
「そうでしたか……」
 どうでもいいのですが、きちんと服を着ては如何ですか。胸板が見えていますが。恵瓊は心の中で諫言する。
「お嫌いでしたでしょうか」
 隆景は穏やかな瞳を恵瓊に向けた。恵瓊は瞳に映り込んだ自分を見つめ、ゆっくりと首を左右に振った。隆景が微笑む。
「では、どうぞ」
 言われるがままに煎餅を一枚手に取り、恵瓊は恐る恐る端を齧った。菓子の類は与えられたことがない。奥歯で噛み、飲み込む。醤油と海苔の風味が口の中に広がり――喉を刺激する。咳き込んだ恵瓊を見て隆元は慌てて駆け寄り、背を擦った。
「だ、大丈夫?」
「落ち着いてゆっくり食えよ」
 などと言う元春は煎餅を絶え間なく齧っている。呆れた目で元春を盗み見て、隆景は恵瓊に茶を差し出す。
「あ……りがとう、ございま……けふっ」
 僅かに涙を滲ませながら、恵瓊は努めて慎重に茶を啜った。

 人は変わらないものですねえ。
 直接風に触れる頭を撫でながら、恵瓊は目を細めた。
 過去を懐かしんだところで現状が変わるわけではない。はためく帽子を見上げて恵瓊は途方に暮れる。もう随分と歳を食ってしまったので、なるべく身体に負担をかけたくはない。
 石でも投げてみようか、と恵瓊が思ったときだ。視界の端にふっと影が映り込んだ。恵瓊が目を見開くよりも早く、その影はさらりと木を駆け上がっては枝にぶら下がる帽子を掬い取り、そのまま飛び降りた。宙でくるりと一回転し、着地する。
「ぼーっとしてるんじゃねえよ」
 じろりと恵瓊を睨み、吉川広家は青と黒の帽子を恵瓊の頭に押し込めた。それを被り直して恵瓊は笑う。
「これはどうも。珍しいですね、広家殿がこちらにいらっしゃるとは」
「当主の使いでな。ついでにてめえが変なこと企んでねえか見に来ただけだ」
「さて、企みとは物騒な。私は常に毛利のためとなることしか考えていませんよ」
 笑顔の恵瓊に対して広家は片眉を吊り上げる。
「それが胡散臭いってんだよ」
 真っ向から向けられる嫌悪感にも恵瓊は慣れたものでさらりと笑顔で受け流し、ふむと顎に手をあてた。
「せっかく来て頂いたのですから、ゆっくりしていっては如何です? ちょうど煎餅を頂いていましてね」
「煎餅だあ? また爺臭ぇもんを……」
「おや、そうでしょうか。私は好きなのですがねえ」
 眉を下げ、首を傾げる。広家は訝しげに恵瓊を睨んでいたが、縁側に広げられた煎餅と茶の用意を見ると顰め面をしたままそこへ腰掛けた。
「てめえ一人に食わせんのも勿体ねえ。貰ってやるよ」
 言うなり煎餅をつまみ出す広家を細めた目で見つめ、恵瓊は眉を僅かに下げたまま口元を緩める。
「噎せないでくださいね」
 親切心から忠告したのだが、広家は不機嫌を隠さない。
「餓鬼じゃねえんだ」
「それは失礼。ともあれ、お茶を用意しますので暫しお待ちください」
 縁側へ上がり、とことこと台所へ歩いていく恵瓊を広家は無言で見送る。ぽり。煎餅を齧る。
「……うめえな」
 廊下を曲がったところで密かにその呟きを聞いていた恵瓊は、口元を手で隠し、くすくすと笑って、また歩き出した。




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