遠き潮騒 | ナノ

遠き潮騒


 木々が紅く染まっている。葉が、枝が、幹が、――地面が。
 赤、紅、緋。
 紅葉のように染まった島を歩きながら、手に持った桶を振り、水をかけた。


遠き潮騒


 潮騒。
 小早川隆景は、船上でそれをずっと聞いていた。胸をざわつかせる音だとは思うが嫌いではない。後ろからの足音にも振り返らずに波を眺め、潮騒に耳を傾ける。
「船の上も、悪くはないでしょう?」
 とうとう声をかけられたので、隆景は不機嫌に振り向いた。
「私は今、波の音を聴いているのですがねぇ」
「それは失礼致しました」
 全く悪びれない様子で家臣の乃美宗勝が応える。細身の隆景よりは幾分か逞しい男だ。潮風が彼と隆景の髪を揺らし、隆景は漸く身体を宗勝の方へ向けた。
「落ち着きませんか」
「まさか……。父上が、勝てぬ戦を仕掛ける筈がありません」
「おや、私は何も申していませんよ」
 宗勝がからからと笑う。隆景は諦めたように溜め息を吐いた。
「私はこれでも大将です。弱音を吐く隙がありましょうか」
 口ではそう言っていても、事実、隆景の心には不安が残っている。
 自分の父親である毛利元就が、主君を倒した謀反人陶晴賢と手を切ったのは記憶に新しい。聖地での戦を前に、隆景は瀬戸内で名高い海賊、村上水軍を仲間に引き入れる役目を請け負ったのだが、こうして船の上で佇んでいる間にも、報告にあった陶軍の大きさに足が竦んでしまいそうだった。一見して勝ち目のない戦は、隆景は経験したことがない。ましてや敗戦など――万が一にでもあれば、逃げられたものか。
「……戦を動かす決め手は、私達が担っています」
 隆景はそれだけ呟くと、宗勝から遠ざかるように歩き出した。
「奏でましょう。勝利への、行進曲を」
 空を仰ぎ、呟いた。空はまだ青い。

「隆景からの報せはない、か……」
 普段の温厚さは何処へいったか、少々苛立った口ぶりで元就が言うと、長男の毛利隆元はびくりと肩を震わせた。
「は、はい」
「元春、お前も何も聞いていないね?」
 元就は道沿いにあった木の幹に寄りかかっていた次男の吉川元春に尋ねた。元春は首を縦に振った。
「はい。しかし、隆景なら必ず、良い報せを運んでくれるでしょう」
「それならいいんだがね。まあ、出来なかったそのときは……私達だけで進むしかないか」
 風が木々をざわめかせる。元春はさあと駆け抜けていく風を感じながら、ゆっくりと幹から離れた。元就の前に立つ。元就は息子を見上げた。真っ直ぐに煌めく大きな瞳が元就を映している。唇が震えた。
「私は……俺は、隆景を信じています」
 それだけ言うと、元春は槍を手にぶら下げて自軍のところへ戻った。
 後ろ姿を見ていた元就は、やがて苦笑する。
「やれやれ。信頼はいいが、過信はいけないよ。私だって息子は信じたいが……」
「い、今やるべきことは、最悪の場合を想定すること……でしょうか……」
 隆元が恐る恐る口を出す。元就はにこりと笑い、自分に似て量が多い隆元の髪を撫でた。はわわ、と隆元が動揺する。しかしその表情は前髪に隠れて見えない。
「陶坊をこの地に誘い出すことが出来れば、まだ何とかなる、はずだよ」
 目を細める元就は、何を考えているのだろうか。隆元は推し量ろうとするが、今まで父の真意を理解した試しがない。諦めて元就から目を離し、敵方となった晴賢のことを思い描いた。白い服に身を包み、正義を愛する――否、正義に取り憑かれた男だった。その正義が主君となる大内義隆を殺させた。当初は手を組んでいた陶と毛利だが、それに反対して晴賢討伐を打ち出したのは他でもない隆元だ。
「わ、私は陶殿を許せません」
 自分で放った言葉が隆元の心に突き刺さる。隆元は、迷っていた。戦に負ける気は毛頭ない。だが、勝てば即ち晴賢の死を意味している。いつか尼子に囲まれた毛利を助けるために自害しようとしていた隆元を止めたのが、晴賢だった。人質である自分が死ねば毛利は大内を裏切り、尼子へつくことが出来る。そう思って短刀を突き立てようとした隆元の手を掴み、晴賢は言った。自分が救う、と。
「お前の全てを、救ってやる」
 晴賢は援軍を出して毛利を窮地から救い、それ自体には元就も、未だに感謝している。だがそれとこれとは別、と割り切るなど謀神と呼ばれる元就には雑作もない。隆元は、違う。元就の冷徹な部分は全く受け継がず、むしろ、乱世には似合わない心優しい青年へと育った。
「私は……間違ってない、よね……」
 ぎゅうと拳を握りしめる。
 隆元は空を見上げた。風が髪を揺らし、隠されていた目を僅かに見せた。
 一方、元春は自らの兵を激励すると、槍を磨いていた。いつ開戦するとも限らない。直接の殴り合いになれば毛利の武を担う者として、背を向けるわけにはいかない。また、焦る心を落ち着かせる目的もあった。
「……隆景」
 父親の前ではしっかりと言い切ったものの、やはり弟が心配ではある。隆景は、瀬戸内を仕切る海賊、村上水軍を味方につけるべく調略へ出ていた。成功すれば大きな戦力となるが、失敗すれば毛利小早川の少ない水軍に頼るほかなくなってしまう。隆景の役目は大きい。だからこそ、万が一のときは自分が庇うべきだと思っている。養子としての役割を果たすためにも、弟のためにも、いざとなれば自分が勝利へ導けば何も問題はない。そう信じている。
 元春は耳を澄ました。それでも潮騒は聞こえない。
「待ってるからな。お前の音を」
 青空には雲が広がり始めていた。

 空の色に染まる巨大な水溜まりを前に隆包は静かに目を閉じる。サアサアと波が船を揺らす。
「殿、本当に渡るおつもりですか」
 ほんの、数刻前のことだ。
 陶晴賢は厳島の地に渡ることを決めていた。それを聞いた家臣、弘中隆包は激しく反対した。
「これは元就の罠です。元就は我らの退路を断ち、厳島に沈める気でいるのです」
 晴賢は腕を組み、隆包の諫言を黙って聞いていた。その手には毛利家臣の桂元澄から届いた書状がある。書状には、陶方につき、元就の留守を狙って厳島にある城を乗っ取る約束がされていた。隆包は、それを嘘だと言う。だが晴賢は厳島行きを決めていた。
「今一度、お考え直しを」
 眉間に皺を寄せていた晴賢は、片腕だけを上げ、左右に振った。広い袖がひらひらと踊る。
「もう決めたことだ、隆包。それとも元就殿が心配か?」
 鋭い瞳が疑惑の色で隆包を睨み、隆包は黙って引き下がった。
 船は既に港を発っている。爽やかな潮騒を感じながら、隆包は重苦しい心持ちだった。青の向こうには島が窺える。緑と、青と。挟まれた空は白く見えた。
「隆包」
 不意に背後で鳴った音に、景色ばかり見ていた隆包はゆっくりと振り返った。白と赤の衣を纏った主君は険しい表情で隆包を睨んでいる。
「吉田郡山城へ救援に出たときのことを覚えているか」
 晴賢が言うのは、かつて毛利が敵である尼子の兵に囲まれ篭城していた頃、動かなかった大内に代わり晴賢が自ら援軍を出したときの話だ。それが晴賢の初陣であった。隆包は頷いた。
「どうしてそれを?」
 毛利はこれから敵として対峙する相手だ。助けたことなど、忘れてしまった方が良い。そう考えたからこそ隆包は聞き返した。
 晴賢は目を閉じ、首を左右に振った。
「いや、……何でもない。忘れろ。全て、忘れてしまえ。元就殿……いや、元就のことも……」
 まだ言葉は続きそうだったが、晴賢は自ら無理矢理口を閉ざし、袖を潮風に翻して去っていった。
「晴賢様」
 コツ、と甲板を靴音が叩く。
「……私情に囚われているのは、貴方の方ではありませぬか」
 隆包は眉を潜めて呟いた。晴賢が振り返ることはなかった。

 一方、小早川の船上では荒々しい音が鳴っていた。
「交渉は、まだ滞っているのですか」
 隆景が詰るが、答える兵はいない。隆景の苛立ちは余計に積もる。元就からは再三、催促の手紙が送られていた。援軍を得られないならば、毛利と小早川の戦力で攻める他はない、とまで書かれていた。そうなれば苦戦は必至どころか、勝利の足音すらも聞こえなくなってしまう。
「宗勝殿は何をなさっているのです」
 ぎりりと歯を鳴らしたところで、直接調略に出ていない隆景には出向かせている宗勝の成功を信じるしかなく、苛立っては兵との不協和音を奏でるだけだ。
 夜を明かした。宗勝が戻っていたが、良い報告は得られなかった。隆景は一度元就の待つ本隊へ戻ることにした。
 本陣では元就、隆元の他、隆景が訪れると聞いて元春も顔を出していた。椅子に座っていた元就は立ち上がり、頭を下げていた隆景に近寄った。
「海賊はまだ難色を示している、と……」
「申し訳ありません」
 元就は顔を下げたままの隆景から軍配を奪い取ると、ふっと微笑み、軍配を振り上げた。すぐに元春が踏み出し、隆元も少し遅れて止めに入ろうとした。軍配が振り下ろされる。
「父上!」
 叫んだ元春を嘲笑うように、軍配は隆景に当たる直前で止まった。
「戦前で、私も気が立っているんだ。くだらない報告ならしなくてもいい」
 軍配が宙に浮かび、隆景の背後に跳ねて落ちた。放り投げた元就は隆景に背を向け、飛び出す場を忘れて呆然と立ち尽くしていた元春と隆元の横をすり抜けた。擦れ違うように元春が隆景の方へ走る。軍配を拾い、立ち去ろうとしていた隆景の後を追うように陣から消えていく。残された隆元は冷えきった空気に固まったまま、元就に声をかけることすら出来ない。
「……何の用ですか?」
 本陣から遠ざかる歩みを止めずに隆景は言う。声は少し震えている。元春は足早になり、隆景に追いつくとその右腕を取った。
「あんま気にすんなよ。父上も、自分の思い通りにならないことが久し振りで苛立ってるだけだからさ」
 元春は笑っているが、腕を握る力は強い。隆景は仕方なく立ち止まった。しかし元春の顔は見ない。
「誰が励ましてくれと言いましたか」
 そう、ぶっきらぼうに言い放つ。だが元春は動じず、もう片方の手で、隆景の後頭部を強引に撫でた。量が多く癖の強い髪をわしゃわしゃと掻き乱す。隆景は少し俯いた。眉を下げ、唇をきゅっと結ぶその顔は悔しさに満ちているが、元春には見えない。また元春も見ようとしなかった。
「ただ……」
 元春からすっと笑顔が消える。
「次は、本当に殴られるだろうな」
「次などありません」
 隆景は漸く顔を上げ、振り向いて元春に目を合わせた。
「どんな手を使ってでも、毛利を勝利に導いてみせます」
 黒く澄んだ瞳が互いの姿を映す。
「……あの」
 隆景は再び顔を逸らし、小さな声を鳴らした。
「ありがとうございます」
 元春は満足げに笑った。

 陶軍が厳島に布陣したとの報せが、毛利に届いた。
「ここまでは、上々だが……」
 元就は本陣で呟いた。雲行きが怪しい。風は温く、湿った臭いを元就に運ぶ。
「……嵐がきそうだね」
 その言葉を聞いていた隆元の髪も風に揺れる。波も高くなっていることだろう。海の方に居る隆景は大丈夫だろうか、と心配が過る。
「嵐……」
 元就は再度繰り返し、口元を手で覆ったかと思うと、すぐにそれを下ろしてにこりと微笑んだ。
「利用しない手はないね」
「ち、父上?」
 不安げな顔で隆元は父を見つめた。元就は微笑んだまま黙っている。冷ややかな笑みだった。隆元はそこに謀神の色を見た。生温い風が、隆元の背筋を撫でた。
 時が転がり落ちる。
 厳島では、隆包がざわつく空を見上げていた。
「一雨、きそうですな」
 掠れた低音が主に語りかける。晴賢は指揮棒をすいと振り、自分の肩にあてた。眉間に皺を刻む。
「一雨で済めばいいが」
「……ええ」
 応えて、隆包は刀を握り締める。胸騒ぎが大きくなる。風がザアザアと二人の心を掻き立てる。嫌な音だ、と晴賢は思った。はためく袖を抱えて晴賢は隆包を見た。
「隆包、決して物怖じするな」
 ぽつり、水滴が空から落ちた。隆包は静かに頷いた。

 荒れる海を船上から眺めていた隆景は口元を緩めた。
「やっと来ましたか……」
 遠くには幾隻もの船と“上”の旗印が認められる。それが、隆景の方へ向かっている。少し前のことだ。隆景は痺れを切らして自ら海賊の元に赴き、村上武吉という男に逢った。援軍を渋る武吉に向かい、自ら頭を下げたのだ。
「一日で構わないのです。その間に戦を終わらせます。どうか、我らに味方して下さい」
 隆景からすると苦い思いでのことだったが、元就に蔑んだ目で見られるよりはマシだと思えた。武吉は隆景を見つめた後、乱暴に頭を掻いて「分かったよ」と、ただそれだけを隆景に投げた。小早川の当主が自ら頭を下げたことは隆景にとっても重い。だが、胸中の兄が笑顔で靄を晴らしてくれた。
 隆景は振り向き、淀む空に軍配を掲げ、目の前に集まった兵に向けて号令した。風が一層強く舞い、木々を揺らし、波をざわめかせ、謳う。隆景はその真ん中で指揮を執り、奏でる。
「――準備は整いました! これより、我らが奏でるのは勝利への行進曲、ただそれのみです」
 兵が呼応する。
「我らは音、我らは弦、我らはこの身を以て奏でよう、勝利の唄を!」
「止まぬ行進曲を!」
「止まぬ交響曲を!」
 隆景の傍らに満足げな表情で立っていた宗勝もこれに続く。
「我らの音を潮騒に乗せ、高らかに唄いましょう」
 雲の流れが速まる。湿った空気が降りてくる。隆景は軍配をゆっくりと下げた。

 天は、夜のうちに荒れた。
 元就は嵐の中で渡航を決めた。
「こ、この嵐の中をいくのですか!?」
 当然のように隆元が驚きの声を上げる。動揺する長男に微笑みかけ、元就は、頷いた。
「嵐だからこそだよ。敵もまさか、こんな日に渡ってくるとは思わないだろう」
「ですが……」
「それより、元春はどうした?」
 尚も食い下がろうとする隆元を遮り、元春は陣を見渡した。待機していたはずの元春が見当たらない。隆元は諦めたような声で言う。
「き、吉川は父上の命令に従うと言い残して……」
 元就は額に手を当て、深く溜め息を吐いた。
「仕方のない子だねえ……。まあ、元春が居なくても吉川の士気はそこまで下がらないだろう。その辺りもちゃんと鍛えてあるさ。問題は何処へ行ったか、なんだが……」
「それは……」
 親子は顔を見合わせる。先に元就が苦笑した。
「あの二人なら任せていていいさ。幸い、元春には先に渡航を伝えてあるんだ」
「元春は何で……」
 姿のない弟を訝しむ隆元だが、ここに居ない男を考えたところでどうしようもないと思い、口を噤む。強風が木々から葉の衣を奪っていった。隆元はその流れる方向を眺めた。
 隆景は、眉間に皺を寄せた。
「こんな荒れた日に、何の御用です」
 船が流されないようにと縄や碇の確認をしていたときだった。突然の訪問者を威嚇するように睨みつけるが、相手は物怖じ一つせずに笑う。
「いや何。調略に成功した弟を労いにだな」
「見え透いた嘘は結構です」
 隆景は再度、元春を睨み上げた。嘘じゃねえよと元春が言う。
「おかげで父上は出航を決めた」
「本日、ですか」
「ああ」
 目を細めて笑う元春から視線を外し、隆景は荒れ狂う暗い海を見つめる。とても船が出せるようには見えない。
「兄上はこちらから渡るおつもりですか」
「迷惑か?」
「迷惑も何も。どうしてわざわざ自分の兵から離れて私の方へ?」
 雨が強くなった。二人は船の中に避難した。波の揺れが直に伝わり、慣れていない元春は苦い顔をするが、堪えて隆景に近付いた。耳に息が触れる。隆景は眉を顰めた。
「味方になったとはいえ、海賊は海賊だろ。途中でお前らを裏切らないとも限らん」
「ですが、警戒しすぎていては信用を損なう……それで、兄上は、お一人で私を護ると?」
「おう」
 元春は即答して笑った。
 隆景は顔を逸らし、若干俯いた。
「杞憂です」
「だといいがな。それに……いや、まあ、あれだ。単純に、俺のお節介だ」
 雷鳴が轟く。
 夜、毛利と小早川の船は波が壁を作る真っ黒な海に向けて、静かに出航した。

 嵐が、去った。
 朝になり視界の開けた先には船団があった。
「また、面倒なところに流れてしまいましたね……」
 隆景は甲板でごちた。小早川軍が向かっているのは、敵の本陣だ。勿論このまま進めば敵に囲まれ、沈められるだろう。元春も隣で「不味いな」と呟いた。だが同じく隆景の隣に立った宗勝は違った。
「援軍を装い、突破しましょう」
「そりゃまた、大胆だな」
 元春が目を丸くする。宗勝はふうと溜め息を吐いた。
「仕方ありますまい」
「ならば、兄上はお下がり下さい。陶殿も遠目で兄上とお分かりになるでしょうから」
「ああ、そうだな」
 元春が身を隠す間にも陶軍の船には近付いている。一つ、白い姿が映った。
「貴様、何者だ!」
 聞き慣れた声だ、と、板越しに聞く元春は思った。
「何者とは失礼な……陶殿の援軍として参った者です」
 穏やかな声で隆景は返答する。

「隆景は無事に陣を敷いたようだね」
 裏手から山に登った元就は木々の間から陶の兵を見下ろした。そうですね、と隆元が相打ちを打つ。俯いていた。
「まだ、迷ってるのかい」
 元就は苦笑する。が、すぐに笑顔を消し、黒い瞳で隆元を睨んだ。隆元は首を左右に振った。
「大丈夫、です……もう、戻る道はありません」
 決意を濃くする隆元だが、元就は反対に、少し哀しそうな顔をした。
「私にも、辛いことはある……」
 隆元はハッとある人物のことを思い出した。声を掛けようにも元就はもう隆元の傍には居なかった。
 毛利軍は山を下り、陶軍に奇襲を仕掛けた。まさか嵐の中を渡航してくるとは思っていなかったのだろう、奇襲は成功し、兵は討ち取られていく。晴賢は知らせを受けて苦虫を噛み潰した。
「くっ……撤退し、体勢を立て直す!」
 本陣に居た晴賢は海の方へと撤退を始めた。無駄に犠牲を出すわけにはいかないと思ったのだ。だがそれを、小早川の陣を出た二人が追う。
「兄上、まさかこれこそが狙いですか」
 駆ける兄弟の前に陶軍の兵士が割って出た。元春は槍を振るい、いとも簡単に退けた。
「何のことだ」
「隆元兄上に陶殿を討ち取らせるわけにはいかない、そう思われたから、目の届く場所から離れて私の方に」
 隆景は軍配で兵の頬を殴り、腹を蹴り飛ばした。
「兄貴は、確かに迷っていた。父上もだ」
「父上が」
「謀神と恐れられても、倒したくない人間が一人は居るってことだ」
 二人はすぐ返り血に染まった。だが足は止めない。
「降伏、してくれたら楽なのにな」
 元春はぽつりと呟いた。
 海が見えた。陶軍の船は、小早川と村上の水軍によって沈められていた。穏やかな潮騒だけが二人の鼓膜を震わせる。さらに、駆けた。敵将の討ち取られていく様子が、勝鬨の声で分かった。義兄も、この声を聞いていることだろう。元春は晴賢の義兄弟であった。それも、今はもう関係がない。
 ざあ、ざあ。潮騒が奏でられる。
 海岸に辿り着いた晴賢は退却する足を止め、沈んだ船を見遣りながら、槍を持った。
「久し振りだな、元春殿。……そうか。そういえば、まだ弟が居たのであったな」
 二人も足を止めた。晴賢の隣には隆包の姿がある。元就の、古い友だった。元就に百万一心という言葉を教え、歴史を愛する意味を与えた男だ。
「初めまして、陶殿」
 隆景はふっと口元を緩めたが、晴賢は眉間に皺を寄せたまま表情を変えない。ここで、全てを理解した。自分は毛利の掌で踊らされていたに過ぎないのだと。
「多くの兵が散った……元就や隆元も、じきに追ってこよう。何としてもここで私を討ち取るためにな」
「それが分かってんなら、もう止めにしねぇか」
 眉を下げ、本心からそう言った元春を、晴賢は一蹴する。
「笑止。今の私がすべきはただ貴様らを粛清し、死んだ者に報いるのみだ!」
 砂を蹴り、晴賢は元春に斬り掛かった。元春もすぐに反応し、槍の柄で受け止める。膠着状態となったが、すぐに隆包が援護に入った。元春へもう一つの刃が向けられる。だがそれは元春に届くまでもなく、軍配を叩いた。片手で支えていたので隆景は体勢を崩したものの、そのまま右手に持った指揮棒を軍配に番える。キィンと金切り音が響き、隆包の耳から頭を揺さぶる。耐え切れずに刀を引いた。元春と晴賢も一度離れ、下がる。再び打ち合った。互いの武器が互いの肌を擦り合う。元春と晴賢はそれぞれ反対の頬に傷を負い、隆景は腕の皮を切られた。潮騒が唄う。隆景は身を翻し、もう一度特殊な軍配に指揮棒を番えた。陣羽織が潮風に靡く。鉄と鉄が触れ合い、快音は潮騒を引き裂く。隆景以外――元春も含めて、怯んだ。砂が音の波動に吹き飛ばされる。その先に、二つの影が、現れた。
 元春は槍を下げ、晴賢と隆包は後方を振り返った。最初に隆包が口を開いた。
「……元就」
 次いで晴賢が言う。
「来たか、隆元」
 元就、そして隆元のさらに後ろには、毛利の兵が待ち構えていた。今にも襲いかからんとする兵を手で制し、二人は晴賢達に近付く。
「さあ」
 元就の目には哀しい色が灯っている。
「……終わらせましょう」
 隆元の表情は、相変わらず見えなかった。元春と隆景は顔を見合わせ、黙って、下がった。
 槍と刀の切っ先が交わった。


 戦は毛利の大勝利に終わった。
 元春と隆景は血に塗れた聖地を清めるため、大地を踏みしめながら水をかけたり、地面を削ったりしていた。
「しっかし、何処もかしこも血塗れだな」
「全て清めると言うのは易いですが、終わるには随分時間がかかりそうですねぇ」
 隆景は戦が終わった直後、山中から海を見下ろし、楽器を兼ねた武器で鎮魂歌を奏でていた。元春も、傍で聴いていた。穏やかな音色だったことを覚えている。
「でも、これからだ」
「ええ。毛利が飛躍するための第一歩に過ぎません」
 元春は水を振りかけていた手を止め、隆景を見つめた。隆景もじっと見つめ返す。潮風が、元春の後方から拭いた。日頃から袖を通していない服の半分がバタバタと揺れ、膨らむ。
「お前は、これが正しかったと思うか?」
 同じ血を分けた瞳同士がぶつかる。隆景はふっと空を仰ぎ、目を伏せ、僅かに俯いて、元春に背を向けた。
「分かりません」
 癖の強い隆景の髪が潮風を受けている。
「しかし、父上と兄上がお決めになったことです」
 元春も空を見上げた。穏やかな青い空だった。
「……そうだな。俺たちは、それに従えばいい」
 隆景は持った桶から水を振り掛けながら、肩越しに元春を振り返った。
「これから忙しくなるのです。無駄口を叩く暇がおありなら、手を動かして頂けませんかねぇ」
 元春はくっと笑った。
「分かってるよ」
 空は青く澄み渡っている。
 二人の元を元就と隆元が訪れた。
「やあ、作業は順調かな」
「父上」
「まだまだ時間がかかるでしょう」
 隆景は応えて、海の方へ目を向けた。
「そうだね……」
 隆元もつられて海を見る。元春、元就も同じように視線を動かした。
 親子は、遠き潮騒を聴く。
 ――終わらせましょう。
 そう、隆元は言った。だが、じき毛利の兵に囲まれ、自身も傷付き武器は跳ね飛ばされ、それでも立ち上がろうとする晴賢の前で隆元は刀を捨てた。
「戦う意志が、あるのなら」
 逆光が隆元を照らしていたので、晴賢はついぞ隆元の表情を知らず終いだ。
「生きて、ください」
 元就に蹴り飛ばされ、隆包が晴賢の近くへ倒れ込む。さらに矢手甲を向ける元就を隆元は制した。
「生きて、償って下さい。貴方の過ち……全てを」
「隆元」
「申し訳ありません、父上。ですが……これが……私の選んだ答え、なのです」
 そうして隆元の下した決断により、戦は陶晴賢、弘中隆包の降伏で幕を下ろした。
 だが捕虜となった彼らの姿をその後見た者はいない。船の中から姿を消していたのだ。沈んだか流れたか、定かではない。
 隆景は目を伏せた。
「生きていたならば、彼らは、また毛利に弓を引くのでしょうか」
 元春が背伸びする。隆元は目を落とした。元就だけが応えた。
「それはないだろう。きっと、どこかで業を償っているさ。……そして、私たちはそれよりも重いものを背負っていく」
「ええ……」
 隆元が顔を上げた。風が前髪を揺らし、普段は隠された瞳を僅かに晒した。
「……その罰は、父上に代わって私が受けます」
 潮騒が揺れる。
 隆景は元春の傍まで歩き、そっと耳打ちした。
「決して、そのようなことにはさせません」
 元春が隆景の手を取り頷く。
「何もかも背負うべきは、俺たち二人だ」
「そのために我らは分家として在るのですから」
 二つの川はある一点で合流し、共に海へと流れていく。流れた先の海にはまだ日が沈んでいたが、それでも川は留まらない。
 ――願わくば、この四重奏が届かんことを。
 誰ともなく、祈った。

 布で顔を隠した二人は山道を歩く。
 この獣道が何処へ続くのかも知らず、山道を登り続けた。
「この向こうが、海へと続けばいいのですが」
「……そうだな」
 白い袖が歩く度に揺れる。彼はただ、己の正義と腹心のみを抱き、木々が空けるのを待った。


 部屋に籠って執筆ばかりしていた元就のところへ、体調の確認も兼ねて隆元が顔を見せた。元就はやはり書を記していた。
「い、今は誰のことを?」
「んー」
 元就はやっと紙から顔を離した。
「ここには居ない誰かだよ」
 思いは、潮騒と共に綴られ、語られていく。
 元就は紙の端に「百万一心」と書き付け、筆を置いた。




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