咲嵐 | ナノ

咲嵐


 目の前には草で出来た檻がある。手で押せば簡単に倒れてしまいそうな脆い檻だ。それでも私はここから出ることが出来ない。自分で作った檻の中、旅立ちを夢見ることなくただ呆然と外を見ている。
 檻の中に影が差した。何となく地面を凝視していただけの私はそれでそっと顔を上げた。誰かが立っていた。誰か、は分からない。顔は見えない。それなのに笑っていることは分かる。奇妙な心地だった。
 影はいつもそこにあった。何が楽しいのだろう、いつも微笑んでいる。やはり顔は見えない。あなたはだれですか。口を開いた。しかし声にはならなかった。だれなのですか。さっと吹いた強い風に影ごと掻き消されてしまう。私はまた独りで檻の中に居た。
 さみしい。檻の中で私は初めてそう思うと同時に首をひねった。さみしい? よく分からない。知らないわけではないが、経験のない感情ではあった。私はこの檻で育ち、檻の中で全てを視ている。それ以外、それ以上は私が手を伸ばすべきものではない。そう信じている。
 それでも私は首を傾げている。
 あなたはだれですか。どうしてここへきたのですか。どうしていなくなったのですか。
 問いかけは風になってさわさわと草の葉を揺らす。
 私はまた一人で檻を見上げていた。
 檻の外には何があるのだろう。見ようとしたことはない。私はずっとここで生きて死ぬものだとばかり思っていた。
 わたしはどうしてここにいるのでしょう。
 外は暗くて何も見えない。私はその場に座り込んだ。草が、何より心を癒すはずの植物が、私を取り囲んでいる。檻を見つめた。葉と茎で出来た檻にはいつの間にか蕾がついていた。
 わたしは。
 風が吹いた。私は顔を上げた。また影が差していた。やはり、笑っている。影の口が動いた。
「殿」
 影が手を伸ばすと檻は容易く掻き分けられ、私はそこから連れ出された。一歩、檻の外側へ踏み出す。薄紅色の花びらが舞う美しい世界だった。ふと振り返ると、蕾は色鮮やかに開いていた。
 私は影だったものを見上げた。そして笑った。
「左近」

 私は、桜の下にいた。
 太い幹に凭れて眠っていたらしい。身体には見覚えのある陣羽織がかけられている。寝ぼけた眼を擦った。咲き誇った幾本もの桜が花びらを散らしている。
 影が差した。
「珍しいですねぇ、殿が転寝なんて」
 見上げると左近が微笑んでいた。私は傍に置いていた笠を拾い上げ、そっと頭に乗せると漸く立ち上がった。羽織を持ち主に差し出して私も笑う。
「……暖かいですね、今日は」
 それが転寝の理由だと言わんばかりに返す。
「ま、殿がのんびりと昼寝出来るのはいいことですが」
 左近は私が被ったばかりの笠を手に取った。そのまま見つめていると、反対の手が私の頭に触れる。
「桜が積もっちまいますよ」
 はらはらと花びらが落ちた。行く先を見送って、左近を見上げる。
「ずっと、傍に居たのですか?」
「そりゃあ、殿を一人で置いて帰るわけにはいきませんよ」
「そうですか……」
 笠が戻される。だらりとぶら下がるだけの紐はそのままにしておくことにした。
「いい天気ですね」
 地面には碧々と草が茂り、そこから逞しい根を張る木々があり、澄み切った空へと抜けていく。爽やかな風に巻かれてはらはらと桜の花が散っていく。空の青に乗った薄紅は散り散りと春を描く。
「ええ」
 左近がその場に腰を下ろす。私もすぐ隣に座った。淡い紅色の木陰で寄り添うように囁き合う。
「……山を降りれば、また戦に身を投じなければなりません」
 さあ、と風が頬を撫でる。落ちそうになる笠を手で押さえる。
「それでも、このひとときだけでも、人々が花を眺め、同じような気持ちになってくれると信じています」
 横目にした左近は両手を地面につけて花びらを眺めているかと思うと、手を伸ばして一枚の紅を掴んだ。
「俺も、信じてますよ。殿が心から安らいで花を眺めていられる世がくることを」
 左近の手から桜が逃げる。
「そのときには」
 私はゆっくりと口を開いた。吹き抜ける風よりも舞い踊る桜よりも、何より私を癒してくれるものを見る。
「左近もともに」
 左近の顔は、はっきりと見ることが出来た。陰ってはいない。夢のように暗くもない。明るい日差しを浴びて笑っている。
「勿論ですよ、殿」
 蕾がふんわりと開く。この花はきっと私を連れていってくれるのだろう。戦のない、泰平の世へ。花はどんな色をしているだろうか。考えているだけで楽しくなってきて、私は笑った。
「左近」
 髪に触れる。少しだけ怪訝そうな顔をする左近の、長い髪についた花びらを、静かに払った。
「また次の季節も、次の年も、ともに花を眺めましょう」
 はらり、はらり。風とともに花が流れていく。私がおもむろに立ち上がると左近も従った。顎で紐を結び、歩き出す。袖が揺れる。まだ寝ぼけていた身体が僅かによろめいたのを、左近が目聡く見つけ、腕で軽く受け止めた。気恥ずかしさで思わず笑う。左近も笑っている。
「気をつけてくださいね、殿」
「……分かっていますよ」
 他愛のない言葉はただ優しく、温かい。
 遠ざかっていく桜はひらひらと薄紅の手を振っていた。




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