微睡みの向こうで | ナノ

微睡みの向こうで


 厳島の大戦が終わり、敗軍の大将でありながらも生き長らえさせられた陶晴賢は、読書で退屈を紛らわしていた。部屋の外には見張りが立っている。軟禁されることに今更不快感はないが、どうにも退屈で仕方がない。読書といっても、無理矢理渡された元就の冗長な著作であるから、退屈であることに変わりはなかった。
「これでは、生きても死んでも変わらぬのではないか」
 本をぱたりと閉じながら、晴賢はぼやいた。自分が生かされている理由が全く分からない。そもそも敗北を悟ってからは厳島に散ろうとしていたのだ。それを敵方の毛利元就らに阻止され、投降という形で拘束された。
 始めの頃はそれでも自害しようとする晴賢を止める為、平時は口に布を噛ませ腕を縛っていたが、その状態で毛利の現当主、隆元の説得を延々と聞かされているうちに根負けし、自害、という道は選ばなくなった。本人はそれを「あの世まで付き纏いそうだったからな」と呆れ気味に呟いている。
 つまらない本を投げ出し、腕を組む。鍛錬でもしておかなければ気が狂いそうだと溜息を吐くが、それで状況が打開されるはずもない。
 背の高い影がすっと障子に映った。
「隆包か」
 いくらか明るい声が出る。影は小さく頷く。
「入れ」
 さらに頭を下げ、かつて晴賢に従っていた弘中隆包が顔を見せる。晴賢同様に降っていたのだが、隆包の方はすぐさま解放され元就の下で働いている。顔を合わせるのは捕らえられて以来のことだったが、二人の間には以前と変わらない空気が流れていた。
「お茶をお持ちしました。それと、元就から感想をと言われたのですが……それは聞かない方が良いでしょうか」
「あれの何を読めというのだ」
 盆と湯呑みを置いた隆包は晴賢の視線を追い、放置されていた本を苦笑しながら拾い上げた。元就とは古い付き合いで夜通し歴史語りをすることもあった隆包は、元就の著作を嫌がらずに読む数少ない人物だ。
「そう言わず……。今は」
「元就に飼われる身、従う他ない。順応の早いことだな」
 隆包は何も答えず、晴賢もまた追求することは止めて湯呑みに口をつけた。温い液体が喉を満たし、落ちていく。半分ほど飲み終えたところで晴賢は口を離した。
「ところで、隆包」
 手持ち無沙汰に本を捲っていた隆包の指が止まる。
「何でございましょう」
「お前はいつも何をしている?」
 突拍子のない質問に顔を上げ、隆包は眉間から皺の消えることのない晴賢を見つめた。少し間を置いて、暇潰しの世間話であると気付く。
「何をと申されましても……見ての通り、小姓の真似事です。主に元就の部屋を片付けたり、仕事をしているかどうか監視したり、それがなければこうして他の雑用を命じられます」
「敵軍の敗将をそこまで信用するか」
「私もそう諌めたのですが、元就はおろか周囲も全く聞き入れず……信頼されているというより、面倒事を押し付けられているだけでしょう」
 隆包は怠そうに溜息を吐き、天井の隅を見上げた。その目は何処か虚ろでさえある。晴賢は茶を飲み終えた。
「ついでに持って帰れ」
 湯呑みを盆に戻し、隆包の手元にある本を指さす。
「はあ」
「何か聞かれたらお前が適当に答えろ。私はもう沢山だ」
「……分かりました」
 悪くないとは思うのですが、と苦笑しながらも隆包は了承した。晴賢はそれまで通り眉を寄せている。
「隆包。お前のその感覚はおかしい」
「そ、そうでしょうか」
 隆包は珍しく慌てるような様子を見せ、これに晴賢は一つの確信を得る。
「お前が生かされたのは歴史語りの相手をさせるためだったのかもしれんな……」
 妙に納得し始めた晴賢を置いて隆包は退室した。仕事が終わったことを告げるため、また本を返すために元就の書斎へ出向く。
「元就、戻ったぞ」
 しかしそこに倉庫とも呼ぶべき部屋の主はいない。あるのは積みに積まれ尽くした本の山と、盛り上がった布団だけだ。隆包は心底呆れた表情で布団を見下ろした。傍に屈んでみると、安らかな寝息が聞こえる。昼を少し過ぎた時間だった。
「……元就」
 隆包は穏やかな声と笑顔で布団の中に居るであろう旧友を起こそうとした。反応はない。隆包は再度、名を口にした。それでも起きる様子はない。
「元就」
 笑顔は張り付けたままで敷き布団を掴み、力任せに引き抜いた。布団の中から元就の姿が転がり出し、畳に頭をぶつける。何やら小さな悲鳴を上げてから、元就は頭を擦りながら起き上がった。黒い瞳に涙が滲んでいる。
「酷いじゃないか、隆包……君は毎度毎度起こし方が荒すぎるよ」
「こんな時間に熟睡するな」
「隠居した身なんだ、もう少し自由にさせてくれてもいいだろう」
 まだ眠そうな顔からは本気で身を引いて著作に専念したい、という本音が表れているようだ。だが隆包はその裏にある実態を見たまま軽く溜息を吐いた。
「本当に隠居しているかは怪しい気もするが……まあその話はいい。人に命じておいて居眠りするんじゃない」
 冗長な著作を本人に突き出すと、若干不服そうな顔でそれを受け取る。元就は読んでくれなかったか、と呟いて本の山に積んだ。
「……それで、君から見た彼はどうだった」
「どう、と言われてもな。以前よりお静かになられはしたが……」
 顎に手を当て考える素振りを見せた隆包だが、やがて元就に微笑みかけた。
「これは、お前の望む答えではないだろうな」
 などと言うわりには、これ以上話そうとはしない。気心の知れた仲であるから、互いの言いたいことは理解している。それでも、元就は念押しするようにわざわざ言葉とした。
「君の主が今誰なのか、それを忘れないでくれ。ただそれだけでいい」
「……ああ、分かっているさ」
 何処か年齢よりも老けて見える旧友は困ったように笑う。
 ひとまず職務から解放された隆包は庭に出た。専ら著作と惰眠に使われている元就の屋敷、その庭は池や植木こそあるものの実に簡素な仕上がりで、眺めるには少し物足りない。晴賢が幽閉されているのも屋敷の一室だが、そちらは外を拝むことすら出来ない。どれだけ退屈だろうかと案じる髪がさらさらと流れる。あるいは自分が懇願したなら、少しは。肌寒い風に身を任せ、隆包は暫し考え込んだ。その間に思考は毛利のことへと移り変わっていく。これからどう動くべきか。考えて、また悩む。
 自分は今、誰に仕えているのか。
 風が止んだ。代わりに声が聞こえた。
「隆包、殿?」
 ぱっと振り返った隆包は、反射的に一礼した。縁側の隆元は困ったように首を傾げている。元就と同じく隆包の旧友であり、改まって礼儀を示される必要はない、と主張したのだが隆包はそれを断っている。
「御用でしょうか」
 名目上は主家の当主であるからと言っていた隆包を、隆元は板の上から見下ろしてみた。父には今でも親しげに話しているのに、そう思わないこともない。
 苦笑した。
「い、いや、あまり外に居ると、風邪をひくと思ったので」
「お心遣い感謝します。ところで、どちらへ?」
 元就の部屋とは違う方向だったので、隆包は尋ねた。逡巡した後、隆元が怖ず怖ずと答える。
「は、晴賢殿のお部屋へ。一人でなければ、外へ出ても構わないと、ち、父上から許可されて……」
 細い隆包の目が僅かに見開かれる。だがすぐに微笑んだ。
「私も、同行してよろしいか」

 久方振りに屋敷から出た晴賢は、まず大きく背伸びした。身体をあまり動かさなくなってから随分と経っていたので、所々が悲鳴を上げる。木漏れ日すらも眩しくて数度瞬きをする。
「明るい」
 晴賢が不機嫌そうに呟く。その両脇を隆包と隆元は歩く。屋敷から出てすぐ傍の丘までの散歩だったが、それすらも晴賢達からすると滅多に出来ることではない。
 すっかり色変わりした木々を見て隆元は溜息を洩らした。木の葉が風に舞い落ちる。ふと横に目を向けると、隆包と目があった。しかしそう思ったのは一瞬のことで、すぐに違うと分かる。隆包は、紅葉を見上げる晴賢を見ていた。瞳には優しさが満ちている。
 狡い。
 風で前髪が翻りそうだったので、隆元は慌てながら手で抑えた。父親に似て量が多い髪に落ち葉の破片が絡まる。ふっと目線を下げた晴賢はそれに気付き、白手袋に包まれた手で落ち葉を取った。突然触れた指に細身の肩が震える。それにも晴賢は仏頂面を向け、おざなりに落ち葉を投げ捨てた。
「何を呆けている」
 はらはらと散る葉の中で、隆元は晴賢を見つめた。晴賢からは目線も表情も見えず、言葉通り呆けているようにしか見えない。恐らく自分が生かした理由も意味も分かっていないのだろう。そう、思う。父は友のために友の主まで赦した。自分は、その逆だ。ぼんやりとする意識にも、晴賢の肩に積もった落ち葉が見えた。
「はる、」
 隆元の唇が名前を紡ごうとした時にはもう、隆包の手が伸びていた。
「失礼します」
 掠れた声を遮って隆包は晴賢の白い肩を払う。晴賢は隆包を一瞥し、さくさくと地面を踏み進んだ。隆包も後に続く。隆元はもう少しだけ立ち止まっていた。
 肉体を拘束しても、心を縛ろうとしても、例え命を奪っても、あの二人の絆は切れることがない。隆元は耳に届くぱらぱらと乾いた音のような気持ちになった。そしてそれは父も同じなのだろう。隆包が毛利に臣従するのは、本当に表面だけのことなのだ。
「……難儀、ですね」
 隆元が来ないことに気付いた晴賢と隆包は遠くで立ち止まり、振り返っている。晴賢に何か怒鳴られぬよう、隆元は駆け出した。
「元就も、この美しい紅葉を見ただろうか」
 笑顔で呟く隆包が僅かに恨めしい。
 風が静かに吹き抜けて、隆元の髪を揺らした。




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