2.毛利両川及び陶晴賢


 潮風に揺らされた軍旗には赤字に白で抜かれた大内菱が煌めいている。片や倒れる軍旗には毛利、吉川、小早川それぞれの紋が刻まれていた。
「嫌な戦だな、こりゃ」
 吉川元春は薄ら笑いを浮かべながら溢した。それに対し、小早川隆景が眉を顰める。
「いい戦などありませんよ」
「そういう意味じゃねえよ」
 大軍に包囲された窮地ですらも喧嘩腰の二人を諌めるのは長男の毛利隆元だ。二人の間に割って入り、今は言い争いをしている場合ではないと諭した。
「喧嘩なら、あとにして……。い、今は、それどころじゃないよ」
 元春が目を細める。
「……わーってるって、兄貴」
 矢の形を模した槍を握り、元春は徐々に迫る軍勢を見据えた。隆景もまた軍配を持ち直してその視線を追う。
「まさか、厳島の地で陶殿に追い詰められようとは。これも何かの縁なのでしょうか」
「そんな縁こっちから願い下げだ」
 ハッと元春が一笑に捨てる。
 荒廃した神の大地で、毛利の三兄弟は四面楚歌の状況下にあった。厳島は元の世界で毛利と陶が争った場所だ。妖蛇がまだ壊していない方へと逃げ延びた末に辿り着いたのがこの厳島だった。荒廃したとはいえ社は残り、大鳥居も何とか形を保っている。懐かしさに三人が暮れる中、遠呂智の軍勢が強襲した。しかし遠呂智軍といえども大半は人間で構成されている。これが何を物語るか、戦を潜り抜けてきた三人には分かっていた。
「傀儡の術ってのは厄介だな。殴って覚めりゃあそれでおしまいなんだけどよ……」
「人ならざる力を有している可能性も大いにあります。たかが兵卒と侮ることもできないでしょう」
 両川と並び称される元春、隆景は隆元を護るように二人で囲みながら周囲を見渡した。まともに陶軍の相手をする気などは一切ない。手薄なところを見つけ出すと、一気に駆け出した。
「俺が斬り拓く! 隆景、兄貴を頼む!」
 先頭を駆けながら元春は叫ぶ。その槍が振るわれるごとに傀儡の兵は倒れた。血気盛んな主に続けとばかりに吉川の残兵も元春に続く。隆景、隆元ら残りの将兵は吉川によって開かれた道を駆けた。
 海が、見えた。だがそこに船はない。船着場には一人の将が立ち塞がる。
 白と赤の鮮やかな対比を纏い、手には短い鞭を持ち、眉間に皺を寄せる姿はこの場の誰にも見覚えがあったが、ただひとつ、普段は自身に満ちているその表情は暗く淀んでいるという点が違っていた。
「陶殿……」
 隆元が小さく呼びかける。陶晴賢は俯いていた顔を上げた。唇が動く。
「粛清……」
 足元の小石が爆ぜたように跳ね飛んだ。晴賢の身体は既に隆元の視界になく、ただ電流だけが背後より隆元を襲った。悲鳴が上がる。傀儡の侍大将は隆元の背を蹴りながらそれを聞いた。あっという間の出来事だった。すぐに反応した元春でさえ、槍を突き出したのは隆元が地面に倒れてからだ。
「テメェ!」
「この動き……人のものではありませんね」
 激昂する元春をよそに隆景は至極冷静に分析し、顎を軍配に乗せさらに指揮棒を宛がう。指揮棒を引くと、弦楽器のような音色が空を引き裂いた。音は晴賢だけに衝撃波を与え、身体を弾き飛ばしたが――それ以上に傷を受けたようには見受けられない。
「通りませんか……」
 ならば、と隆景は深く息を吸う。元春は晴賢に追撃しようとし、隆元はその間に体勢を立て直す。
「――毛利三の矢が策」
 隆景が高らかに唱う。元春は何とか槍で晴賢の身体を捉え、隆景の方へ投げ出した。
「よくよく考えなさい」
 音の奔流が空気にも大地にも走り、凍て付かせる。それは晴賢とて例外ではない。足元が凍り、身動きのとれない傀儡を背後から元春が襲う。槍を片手で持ち上げ、元春は唸る。
「俺こそ毛利二の矢……ここは通さねえよ!」
 紅蓮の炎が迸り、晴賢を貫かんとする。晴賢は上体だけを振り向かせて鞭を構えた。暗い声で叫ぶ。
「我こそが……正義……」
 鞭に紫電が灯る。元春は一瞬だけ顔を強張らせたが、そのまま槍を突き出した。
「……意義など許さん……」
 火花が散る。鞭一つに押し負けていることが、元春には信じられなかった。炎は徐々に消え行き、槍からは電流が伝い元春に響いた。
「ぐ、ああっ!」
「兄上!」
 地面に落ちた元春の元へと隆景が駆け寄る。氷はすべて溶けてしまった。晴賢は鞭を隆景へと向けた。視界の端には隆元が父親から借りた矢手甲が映る。
「お、奥の手です!」
 矢手甲から放たれた短い矢が、身体を護るため振り上げた晴賢の袖や腕に突き刺さる。
「一の矢の意地!」
 隆元は晴賢の懐に飛び込み、矢手甲を直に向けた。そして、放った。晴賢の身体は宙を舞い、安堵の息を洩らした隆元だが、最中で晴賢が受け身を取り顔を曇らせる。
「……粛清を」
 晴賢は口から流れる血を白い袖で拭った。元春、隆景が隆元の左右にまわる。
「効いてはいるんだよな、一応」
「ですが、所詮は傀儡。たとえ身体が保たなくとも術によって動かされます」
「西国一の侍大将、それも術で強化されてんじゃあ、矢が束なったところで……」
「兄上」
 珍しく弱音を吐こうとする元春を隆景が窘める。晴賢だけでなく陶軍の兵も船着場に駆けつけ、形勢は不利になるばかりだ。隆元は入ってきた道とは別の道を指さした。
「向こう……拠点が見える。あ、あそこから逃げられるかもしれない」
「そりゃ、こいつがいない場合だろ?」
 元春は晴賢を睨んだ。うん、と隆元は頷き、少し考えて、弟二人よりも前に出た。
「兄貴?」
 二人に背を向け、隆元は晴賢の方へ一歩ずつ歩き出す。
「わ、私の攻撃が、一番通るみたいだから……こ、ここは、私に任せて……」
 隆景はすぐさま隆元の意志を察した。元春も分かってはいたものの、認めることが出来ずに噛み付こうとする。隆元は元春の声も遮って笑った。
「二人は、逃げて」
 閃光が煌めく。隆元は晴賢の鞭を矢手甲で受け止め、押し負けそうになりながらもその場で踏ん張った。徐々に閃光の輝きが弱くなっていく。
「何いってんだよ、兄貴! 当主を護るのは俺たちの役目だろ!」
「兄上こそ、お逃げください!」
 武器を構え飛び出そうとする二人の弟を、隆元は首を左右に小さく振ることで拒んだ。
「私、だって……」
 渾身の力で鞭を弾き、晴賢を押し返す。震える己を戒め、隆元は叫ぶ。
「弟を護るのは、兄の役目だ! 撤退せよ! これは、毛利当主としての……命令だ!」
 跳ねた隆元の背に元春は手を伸ばしたが、隆景がその腕を掴み、逆方向へと駆け出した。
「隆景ぇ!」
 地の底を這うような声が元春から発せられる。隆景はそれでも元春の腕を離さずに駆けた。やがて元春も歯を食いしばりながら追従し、船着場の潮騒は遠ざかった。細道へと続く門が二人の目に入る。その向こうに敵兵の影はない。二人は互いの手をしっかりと握り、走った。喧騒すらも聞こえなくなった。門をくぐり抜けたとき、背後からは血の臭いが漂っていた。
 元春は突然足を止め、隆景もあわせて留まった。はあ、はあと、荒ぶる感情を抑えながら元春は振り向く。
 血に塗れた晴賢が佇んでいた。
 隆元の姿はどこにもない。
「晴賢……テメェエエエエエ!」
 血走った目を見開き、元春は突撃する。晴賢も既に手負いの身だったが、構うことなく応戦した。激しい打ち合いが始まろうとしていた。隆景は二人が離れた隙を見て、危険を承知で元春に手を伸ばし、服を掴んで無理矢理自分のもとへ引き寄せた。そして軍配で頭を容赦なく殴った。
「何をしているのですか! 今は戦っている場合ではありません!」
「隆景……なんで邪魔すんだ!」
 紫電が二人に迫る。はっと晴賢の方を見遣った二人はすぐさまその場を離れ、また撤退を開始した。追撃しようとする晴賢を――一人の将が止めた。身なりからは陶軍の将であると分かる。
「あんた……」
 目で追っていた元春は一際立派な鎧を身につけたその将に懐かしいものを感じた。決して晴賢から視線を逸らさずに将は言う。
「無理矢理従わされているものもいるということだ……。逃げよ、お二方! 家臣の責任としてここは私が食い止める!」
 その声を背に隆景は再び元春の手を取り、退路を目指した。
 残された大地には仄暗い鮮血が飛び散った。
「……粛清」
 自軍の将兵をも躊躇なく討ち取り、晴賢は元春や隆景らの姿が見えないことを知ると、船着場の方へと引き返し始めた。
「くっそ……」
 徐々に道は明るい方へと開けていく。少し安らいだ顔の隆景を隣に、元春は吠えた。
「あああああああ!」
 猛将の涙が散る。

 やがて撤退した先で遠呂智と敵対する同盟軍に合流し、元春と隆景はそれぞれの兵士を連れて陣地に辿り着いた。二人は真っ先に父、毛利元就を探し幕舎に赴くと元就の前で膝をついた。
「……申し訳ございません、父上」
 隆景が深々と頭を下げる。
「どうしたんだい、急に……」
 元就は困ったように頬を掻いた。そして笑った。
「いや、お前たちが無事でよかったよ」
「しかし……」
「俺たちは兄貴を見捨てました」
 元春が割って入る。元就は目を丸くした。今まさに隆元のことを尋ねようとしていたところだった。
「私達を逃がすため、自ら……」
「ああ……あの子はそういう子だろうね」
 幕舎に冷たい風が吹き抜ける。元就が長男を一番重要に思っていることは元春や隆景もわかっている。本当ならば自分たちが命を失ってでも逃がすべきだった。そう思っているからこそ次の言葉が出ない。
 元就は、二人の頭を撫でた。
「大丈夫。……助けよう。ここではそれができる」
「父上……」
「しかし、どうやって」
「何、心配することはないよ。お前たちは少し休んで、またあの厳島へ戻りなさい」
 言葉を失った息子を置いて元就は幕舎を出た。かと思えば、近くの別の幕舎へ入っていく。
「ちょっと、頼みがあるんだ」
 にこやかな顔の元就を確認し賈クは至極嫌そうな表情を作ってみせた。

 元春と隆景をゆっくりと瞼を押し上げた。
 目の前に広がる陶の大軍、感じる潮の匂いはあの時と何も変わらない。
「……いくぞ」
「……ええ」
 二人は隆元に聞こえぬよう、静かに決意した。
 戦況は――変わりなく、劣勢が続いた。元春は以前とは違う逃げ道を斬り拓くことで未来を変えようと試みた。敵の数は以前よりも多かったが、元春は意地で薙ぎ倒した。隆景も惜しむことなく力を出しきり、長男を護衛する。補給拠点が見えようとしていた。ああ逃げられる。胸を撫で下ろす元春の前に、またもや晴賢が立ち塞がる。
「……正義」
 晴賢が腕を上げ終わる前に元春は槍を打ち込んだ。
「俺こそ、毛利二の矢! ここは通さねえよ!」
 決まり文句を口に飛び込むも晴賢の肌に浅い傷を作るばかりだ。相性悪いな――元春は小さく舌打ちをする。
 周囲は陶軍に囲まれていた。こうなれば今度は自分が犠牲に、という考えが元春や隆景の頭に過る。それを打ち消すように隆元が矢手甲を晴賢に向け矢を放った。
「お――」
 隆元が大きく口を開いたときだ。台詞は歓声と蹄の音に消えた。次いで悲鳴が上がり、陶軍の将兵が蹴散らされていく。
「奥の手だ!」
 短い矢が戦地に降り注いだ。元春と隆景は顔を見合わせ、歓喜した。
「父上!」
 鎖鎌が飛び敵陣を掻き回す。賈クは溜息を吐きながら親子の再開を遠目に見ていた。
「やれやれ。いきなり何かと思えば、援軍を出せとは」
「これで、歴史は変わりました」
 賈クの傍で仙女のかぐやが微笑む。

「お願いします!」
 かぐやの脳裏には隆景の悲鳴が響く。
「兄上をお助けしたいのです。力を……貸してください」
 唇を噛み締め今にも泣き出しそうな隆景は、知将ではなく、弟の顔をしていた。

「家族を助けたいという願い……私もお見届けしたく思いました」
 かぐやが舞うと宙に浮いた鏡が輝き、照らされた敵が倒れていく。賈クは鎖鎌を放って鎧を切り裂いた。
「ま、お二人が合流したっていう軍勢があってよかったよ」
「おかげでこうして駆けつけることが出来ましたから……」
「厄介そうな御人がいるが、その後始末は元就殿たちにお任せして……退路でも作るか」
 淀んだ空から雲が消えていく。
 元就、隆元、元春、隆景は傀儡となったかつての宿敵を見つめた。元就の矢がところどころに突き刺さり、傀儡となっていなければ既に倒れていてもおかしくはない。元春はボロボロになった晴賢を睨み――槍を捨てた。隆景が怪訝そうに兄を見上げたが、悟って自分も軍配を置いた。隆元はそれを困惑しながら観察している。
「まだ目覚まさねえのかよ……」
 晴賢がふらつくと同時に、元春はその頬を素手で殴り飛ばした。そのまま晴賢の襟を掴み問いかける。
「いい加減にしろ! お前の貫きたいものは……おかしな術にやられる、その程度なのかよ!」
 襟を乱暴に離し、元春はもう一発とばかりに拳を作った。その間に隆景が止めに入った。無言で元春に向け首を振る。
 仰向けに倒れた晴賢は、晴賢の瞳は、雲の途切れた空に似た色をしていた。
「貴様……何を……っ」
 起き上がろうとして全身の痛みに気付く晴賢。元春はやっと歯を見せて微笑んだ。
「……よう。気分は晴れたか」
「だから、何の話だ!」
「晴賢殿! 元に戻られたのですね!」
 別の時間で殺されたとはつゆ知らず、隆元はただ術の解けたことを喜んで駆け寄ろうとする。しかしそれより前に、元春を制止していた隆景が、晴賢の頬を殴った。丁寧に、元春とは逆の頬を。
 元々傷付いていた晴賢はその一撃で気を失ってしまう。
「た、隆景?」
「そこまでするか?」
 予想外の行動に隆元も元春も呆気にとられ、晴賢を気遣うことすら忘れてしまった。元就だけが笑う。
「さ、大人しくなったことだし、ついでに陶坊も連れて帰ろうか。退路は賈ク先生が確保してくれているだろう」
 賈クがくしゃみをしたことなど知らずに元就は合流を目指す。元春はぐったりとして動かない晴賢を抱え、隆景の頭を軽く叩いて、隆元に微笑みかけた。
「一緒にいこうぜ、兄貴」
 続けて隆景も隆元に言う。
「行きましょう、兄上」
 二人で手を差し伸べる。隆元は、どちらを取ればいいのか分からず、迷った末にその間を歩き出した。

「……何故私がこのような目に遭わなければいけないのだ」
 包帯でより白くなった晴賢がぶつぶつと愚痴を洩らす。幕舎が立ち並ぶ居住区の片隅で呟いたものだから、誰も聞くものがいない。
 そこへ、島左近とその主筒井順慶がやってきた。
「あんた、戻ってたんですか」
 左近は順慶を救出する際に傀儡となった晴賢に出逢っている。勿論晴賢がそれを知るはずはない。
「何だ貴様は」
「しがない軍略家の左近ってもんです。あんたとは傀儡のときに出逢ってましてね」
「ふん、ならば知るはずなかろう」
 晴賢が眉間に皺を寄せる。そこへさらに、兼続が到着した。
「おお、何やら左近が話しているかと思えば、貴方は正義の御仁ではないか!」
 晴賢が少しだけ嬉しそうに目を開く。
「その方は義の……」
「無事だったのだな! いやあよかった! 共に義を語ろうぞ!」
 居住区の一角が暑苦しくなった頃、左近は既に順慶を連れて逃亡していた。何故逃げ出したか分からない順慶はきょとんとした顔で左近を見上げている。左近は飯店の方まで順慶を連れ出すと、順慶の肩を優しく叩いた。
「左近?」
「あそこにいたんじゃ、殿までおかしくなっちまいそうでしてね……」
 今頃は馬超なんかも吸い寄せられているに違いない。そう思うと気が滅入り、左近はそのまま店主に酒を頼んだ。
 宴席では、毛利の三兄弟が共に盃を交わしていた。




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