春景4


 以前、二人で抜け出して野犬に襲われたことをすっかり忘れてしまったのか、次郎は再び徳寿を連れて勝手に外出していた。それも既に暗く、月明かりしか頼るもののない時間だ。
「兄上、今度は何処へ?」
 少し怯えながら、しかし次郎を信頼しているので止めようともせず、その手を握ったまま徳寿が尋ねる。少し前を歩く次郎は振り向くとにっこり笑って「内緒」と言った。
「大丈夫だって、ちょっと川を見に行くだけだから」
「川?」
「そんな山奥には入らねえよ」
「……本当ですか?」
 じっと見つめる徳寿に苦笑し、次郎は強く徳寿の手を握った。僅かに顔を赤らめた徳寿がふっ微笑む。
「帰ったらまたお説教ですね。ちゃんと許しを貰えばいいのですが……」
「んなことしたら、誰かついてくるだろ? 俺はお前と二人がいいの」
 次郎が屈託のない笑顔を向け、徳寿は顔を真っ赤にして俯いた。何故だか照れくさくて仕方がない。しかし、その感情はまだ徳寿には分からない。
 木々の開けた道を少し歩くと、月光に照らされた水辺が目に入った。せせらぎが静かな闇夜に木霊し、水面はてらてらと輝く。滔々と、清流は森の中を泳いでいる。周囲にはちらほらと燕子花が咲いていた。
「きれい」
 呟いてから、徳寿は自分が声を出していたのだと知った。何も考えずに出た言葉だったのだ。見ると上も木の葉には阻まれておらず、三日月がはっと覗いていた。空からは三日月が、地からは水がその光を反射して、その場だけがほの明るい。
 次郎は川辺の大きな岩に腰掛けると隣に徳寿も座らせ、川の奥の方を指差した。
「そろそろだ」
 次郎の合図に徳寿は息を呑んで指の先を見つめる。
 少し、待った。闇の奥に小さな灯りが灯り始めた。ぽつり、ぽつり、山吹色に灯っていく。すいすいと飛び合い、時折ふたつがひとつの光になりながら、水の上を滑る。
「蛍……」
 徳寿はやっとその名前を思い出した。
 蛍は子供の存在など気にもしていないのか、二人の傍まで近付いてきた。空を飛ぶ光を水鏡が増幅し、一面が蛍に照らされる。
「……来てよかっただろ?」
 抑えた声で次郎は言った。徳寿は穏やかに頷いた。
「ああ……綺麗ですね」
 七彩を眺めながら、徳寿が溜め息のように呟く。
 二匹の蛍が追いかけ合うように飛んでいた。徳寿は何故だか、それに目を奪われた。気持ちが良さそうに、仲が良さそうに、触れるか触れないかの距離で飛び回っている。
 ああ。兄と、あの蛍のように、なれたら。
 そっと次郎の手に自分の掌を重ね、徳寿は願った。
 光がひとつ、燕子花に下りた。




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