不敗のひみつ | ナノ

不敗のひみつ


 蝉が喧しいくらいに鳴いている。
 隆元は自分の執務室でそれを聞いていた。以前二番目の弟が蝉の声について文句を言っていたが、隆元はそこまで神経を撫でられない。むしろ穏やかな気持ちで聞いている。
 今日も平和だなあ――。
 何にも掻き消されることのない蝉の声にそう思えるのである。
 父上から頂いた本でも読もうかな――。
 冗長でくだらないと評される元就の著作も隆元は嫌いではない。特にするべき仕事もなかったので、隆元は一日を読書にあてようと決めた。
 しかし、因果ともいうべきか、その穏やかな願望はすぐに打ち砕かれる。時々くすくすと笑いながら著作を読んでいたときだ。
「あーにーきっ」
 パァンと凄絶に障子が開かれ、隆元は前髪に隠れた目を白黒させながら顔を上げた。
「も、元春? どうしたの?」
 取り敢えず本を畳んで文机に置いて隆元が尋ねると、元春はその本を見て首を傾げた。
「ん? 仕事中だったか? 今日は何もないって聞いてたんだが」
「いや、父上の本だよ。私に何か用?」
 元春は元就の、と聞いて納得したらしく、にこりと笑った。あ、これは悪いことがあるな――。隆元の勘が悪い方向へ働く。
「鍛錬しようぜ!」
 人懐っこい笑顔を見せる元春に隆元は若干の恨めしさを覚えるのであった。

 外に出て竹刀を握ったのはいいものの、隆元は乗り気でない。
「で、でも、何で私……?」
 見遣る元春は上機嫌に長い棒を振り回している。矛先がないとはいえ操るのは毛利の武を担う元春だ、当たればただでは済まないだろう。そして隆元には受け止める自信がない。
「鍛錬の相手なら、私よりもっといい人が居ると思うんだけど……隆景だって……」
「俺は兄貴がいいんだよ」
 棒の端で地面を突き、元春は白い歯を見せる。
「憂さ晴らしだとでも思って、たまには思いっきり身体動かせって。すっきりするぜ?」
「もう……私が元春とまともに打ち合えるわけないじゃないか……」
「手加減するって」
 にこにこと笑う元春は多分、本当に自分と稽古出来るのが嬉しいのだろう。隆元はそう思うことにして、つられるようにふっと微笑んだ。
「本当かなぁ」
「何で疑うんだよ」
 元春が笑顔で足元の小石を蹴り上げる。小石はゆっくりと落ちていく。地面に着いた。僅かに立つ土煙。
 重い衝撃が、隆元の腕を震わせる。槍の柄と同じ太さの棒を全力で受け止めた竹刀が軋む。薙ぎ払うように振るわれた棒を何とか弾き返し、隆元は数歩引いた。まだ手が痺れている。
 それを痛いと思う暇もなく、元春が腹を突こうとする。隆元の視界にその様子は映らなかったが、体勢を立て直そうと偶然動いた瞬間であったので、棒の先端は何もないところを突き刺した。小さな舌打ちが聞こえる。運が良いことだ――元春はそう思いながら棒を手元に返すが、その間に生まれた僅かな隙を、隆元はここで見逃さなかった。
 平穏な休みと読書を邪魔された恨みも幾分かないわけでもない。その上相手は自分の力量を知っていて油断している。私だって謀神の息子で、元春の兄なんだ。隆元の中で様々な思いが巡り、右手を動かさせる。
 元春の懐に飛び入り、胸の中心を突いた。ぐっと簡潔な悲鳴が洩れる。長い得物も間合いのさらに奥へ入ってしまえば大して恐くはない。隆元は元春の身体による反撃も考え、竹刀を両手で握りしめると、間を置かずに全力で元春を打った。流石に元春もよろめくが、その目は獣のように血走っていた。無意識であるとしても、戦の最中にふと見せる目と同じもので、隆元は悪寒を覚えた――と同時に、再度、今度は反射的に、竹刀を振るっていた。
 数度まともに身体で衝撃を受け、元春は少し吹き飛ばされた先で尻餅をついた。まだ武器は離さず、開かれた目もぎらついたままだ。そんな元春に、隆元は竹刀を放り捨てて駆け寄った。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
 普段通りの兄を見て、元春も正気に戻る。と同時に痛みを思い出し、腹を抱えながら隆元を睨み上げた。うっすらと涙が滲んですらある。この男は敗戦に慣れていない。
「いってー……俺は手加減するつったけどさ、そんなにマジでやることねえだろ……」
「ごめん、恐くてつい……」
「恐いって、俺が?」
 胡座をかくように地面へ座り直し、元春は首を傾げる。
「う、うん」
 隆元は遠慮がちに頷いた。
「凄く……恐い目をしてた」
「……ああ、何か一瞬意識飛んでた気がする。本気になるとやっちまうんだよなぁ、時々」
 ぼりぼりと頭を掻く元春だが、隆元は意外そうな顔をした。自分の武など元春はおろか他の弟や父にも叶わないと信じている。
「兄貴はさ……」
 元春はゆっくりと立ち上がった。
「やれば出来るんだって、何でも」
「そ、そんなこと……」
「あるんだよ。勿体ねえぜ、その性格」
 ぐっと背伸びをすると、元春は人懐っこい笑みを隆元に向けた。
「まあ見てろよ。俺はこれから先誰にも負けない。いつか、兄貴がこの時のことを自慢出来るくらいになってやるから、誇れよ?」
 とはいえ悔しいな――などとブツブツ呟きながら、元春は棒を引っさげて去っていってしまった。
 一人、隆元は考える。まさかそれを伝えるつもりでわざと負けたわけではあるまい。これは偶然で、元春の負け惜しみだ。きっと元春はただ自分を外へ連れ出したかっただけなのだろう。それは分かっているが、全てのことが、素直に嬉しい。
「……よし」
 自分の指を何度か開いたり閉じたりしながら、隆元はくすりと微笑んだ。

 後日、またとある暑い日のこと。
「隆景! ちょっと付き合え!」
 元春が勢いよく障子を開け放つ音。
「……またですか、兄上」
 隆景は蝉の雑音に苛立ちながら顔を上げる。
「うるせぇ。もう俺は誰にも負けねえんだよ」
「仰っている意味が分かりません」
 拒絶してもどうせ無理矢理引っ張り出されるのだ。隆景は渋々部屋を出た。
 元春が、隆元に膝を突かされてから一週間。もう毎日のように隆景は鍛錬に付き合わされている。
「はあ……」
 戦力がさらに強まることはいいのですがねぇ。
 ただ巻き込まれただけの隆景は、長男の姿を瞼の裏で描きながら、溜め息を吐いた。




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