音ノ羽 | ナノ

音ノ羽


「んー……」
 隆景は両手の指を組み、思い切り背を伸ばした。抜けるような青空と厚い雲に手を伸ばす。父が強く信仰している日輪がぎらぎらと輝いている。
「もう、夏ですねぇ……」
 朝だというのに、既に蒸し暑い。
 隆景は、というより、父の元就があまり暑さに強い方ではない。緊張感のある戦場ともなれば気合いで乗り切ることは出来るが、この季節はあまり外に出ようと思わない。しかし隆景には引き蘢ってもいられない理由がある。それはいくつも存在しているが、何より、一番大きな理由は――。
 足音に隆景は振り返った。
「おはようございます、叔父上」
 庭に出てきた輝元はぺこりと頭を下げた。もういい歳になる。家督を継ぎ、正式な毛利の大将となってからも随分と経つが、隆景は今でも昔のように世話役を預かっていた。
「今日は、私が声を掛けずともお目覚めになったのですね」
 隆景が含みのある笑い方をすると、輝元は眉をへにょりと下げて少々引き攣った笑顔を見せた。
「い、いつまでも叔父上のお手を煩わすわけにもいきませぬから!」
「それが毎日続けばよいのですが……。おっと、今朝は小言も不要ですね。申し訳ありません」
 平謝りする隆景はそのまま空を見上げた。青い。暑い。――それでも早くから目覚め、外で身体を動かすのは、この殿の見本となるためだ。
 日頃の振る舞い、作法から、政や戦のやり方までを広く教えているので、まかり間違っても隆景が輝元の前で無様な姿を晒すことはない。朝から夏の日差しを厭って部屋に引き蘢っているようでは輝元に見せる背中がないと、隆景は多少無理をしてでも顔を見せている。兄の元春などからは、それは俺がやるから――と言われるのだが、隆景はどうしても断っていた。
「では、少し身体を動かしてから本日のお務めと致しましょうか」
 額に浮かぶ汗を隠すように少々首を傾げながら、隆景は微笑んだ。輝元はあまり楽しくなさそうな顔をしていた。

 隆景は輝元に厳しい。
 書を読んでいるときなど、少しでも居住まいを崩せば注意するし、あまり酷いときには手が出る。輝元もそれはよく分かっている。だが、どうも直らない。父や祖父に甘やかされて育ったからだろう、と隆景は思っている。しかし昔のままというわけでもない。隆景も、今の成長した輝元を見ると、時々寂しい気分になる。だから欠点が残っていて嬉しいくらいだった。
「いつか私が必要でなくなればよいのですが」
 口では時々そう話すが、本心ではない。輝元も、「そんなことを仰らないで下さい」と祖父のように眉を下げて懇願する。
「勿論、私達が毛利を支えていくことに変わりはありませんが……いつかこうしてお教えする必要がないようになって頂かなければ」
「……寂しいことを仰らないで下さい、叔父上」
 冗談混じりで話していた隆景が見たのは、神妙な顔つきで自分を僅かに見下ろす輝元だった。もう、座っていても身長が抜かされてしまっている。二人の前にある文机、敷いた紙にぽたりと汗が落ちた。墨が滲む。
「輝元様?」
 蝉が羽を震わしている。隆景は息をのんで次の言葉を待った。
「こうして傍でお美しい顔を見られなくなってしまうかと思うと、無理矢理にでも不真面目になるしかぶっ」
 ――パァン。派手な音が響いた。勢い良くひっぱたかれた輝元の頬は赤く腫れている。
「まさか本当にそのような理由でわざと話を聞き流して頂いているのですかね……?」
「じょ、冗談です!」
 衝撃で畳に肘をついたまま輝元は慌てて首を振り、「しかしお美しいのは本当です!」と付け足した。
「……何を仰っているのやら」
 隆景はふうと溜め息を吐き、自分の汗で汚した紙を手に取った。書状を送るためには美しい文字でなければならない、と書かせていたような気がする。暑さのせいか、輝元が言った言葉のせいか――少し、ぼんやりとしている。
 頭が一瞬真っ白になった。
「お、叔父上!?」
 すっと目を閉じ、座ったままふらついた隆景を輝元は慌てて抱き留めた。
「どうなさいましたか!?」
 少し揺れた程度で、しっかりと抱く必要まではなかったのだが――そんなことも考えられないほど、隆景は固まっていた。瞳を覗き込めるくらい輝元の顔が近い。いつまでも幼いと思っていた甥は自分の背を抜かしたし、顔も父や祖父にいくらか似て、穏やかで端正な顔立ちになっている。片や、自分は老いた。真摯な顔で見つめる輝元に胸が高鳴る程度には。
「だ、いじょうぶです」
 輝元の右頬に刻まれた手形に目を逸らし、隆景は舌足らずに言った。だが輝元は引き下がらない。
「いいえ、そんなはずがありません!」
「少々くらりときただけです、どうかお離し下さい」
「そんなことを仰っても、どんどんお顔が赤くなっているではありませんか」
「それは……」
 ――まさか、貴方が近いからです、などと口を避けても言えまい。
 そうして熱くなる気持ちも、自分が叩いた輝元の頬を見つめているうちに冷め始めた。そう、中身は自分がよく知るままなのだ。隆景は先程までの自分を恥じた。
 このお方は輝元様だ。他の誰でもない。自分が面倒を見てやらなければならない、頼りない毛利の大将だ。
「今日は暑いですね」
 隆景はそう呟いた。

 夜になるといくらか涼しくはなるが、それでも蒸し暑い。
 蝉も静まり返った夕闇に哀しい色の旋律が流れていた。
 隆景が戦場でも持ち歩いている軍配と指揮棒がどこから来た物かは、本人ですら知らない。不思議なことに、弦も無いのに指と棒の動きだけで異国の楽器と同じ音色を奏でられる。殺意を持って奏でれば相手の脳を揺さぶる凶器にさえなり得るが、穏やかな気持ちで奏でれば心地良い唄となる。
 朝方出ていた庭の石に腰掛け、隆景は奏でていた。
 音色に微かな物音が混じる。手を止めずに隆景は顔だけを動かし、その方向を見た。驚いてびくりと足を止めた若殿の姿がある。
 隆景はくすりと笑い、いらっしゃい、と言った。輝元は近くの石にちょこんと座った。
 星が流れる。温い風で抱き締めるような、そんな音を、隆景は目を細めて奏でている。照らすものの殆どない宵の口、妖しい音を唄う。輝元はいつか聞いた、天女を思い出した。羽衣を纏い、美しい舞を見せては天に還っていく。今の叔父はまさに天女のようでさえいて、輝元は、思わず隆景の腕を握った。ギィと軋む音だけ残して唄が止む。
 隆景は不機嫌そうに、かつ怪訝な顔で輝元を見上げた。
「不快でしたか?」
「……いいえ」
「では、何か――」
「叔父上が、」
 昼間の痣など遠に失せてしまっていた。改めて間近で見つめ合い、隆景は目を逸らしそうになったが、諦めた。輝元の瞳が僅かに濡れている。
「このまま、夜の中に消えてしまいそうで……」
「まさか……私はここに」
 言いかけて、隆景は昼間に自分が発した台詞を思い出した。
 ――いつか私が必要でなくなればよいのですが。
 純粋な甥はそれを真に受けて悩んでいたのだろうか、と気付く。
 隆景は柔らかく微笑んだ。
「……ここに、居ますよ。ずっと。輝元様の傍でしか聴く事の出来ない音もありますから」
「は……?」
 よく分からないといった風に輝元は首を傾げた。隆景はやはり微笑み、
「分からなくてよいのです。これは私にしか分からないことですので」
 ――そうして、演奏を再開した。輝元は居住まいを正して大人しく聞き入った。
 顔を出した月の下、老いた独りの奏者はそれでも麗しく、艶かしい。
「ああ……」
 輝元は無意識に溜め息を漏らした。
 この音色が、唄が、隆景にとって最も重要な意味を持つことなど、まだ知らない。




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