擬家族論
どたどたどたどた。
決して小さくはない足音が、元就の隠居部屋にまで響く。著作に勤しんでいた元就は手を止め、顔を上げた。
「輝元様!」
予想通り三男の声が聞こえ、元就は困ったように微笑む。
襖の方が開いた。
「大殿、失礼します!」
まだ若い毛利の当主が滑り込むように部屋へ踏み入る。すっと襖を閉めると、輝元ははあと溜め息を吐いた。
「今日はまた、どうしたんだい?」
筆を弄びながら元就が聞く。
振り向いた輝元の右頬は少し赤くなっていた。襖に凭れ、座り込む。いつもとは様子が違うな、と元就は思った。時折、隆景の教育を嫌って逃げ出した輝元と隆景の追いかけっこが始まることは今に始まったことではないが――。
「……叔父上は、私が嫌いなのでしょうか」
「まさか」
重々しい呟きを元就は即座に否定してみせる。
「元春と隆景は好き嫌いが激しい方だし、嫌いだったなら役目であってもそこまで厳しくはならないだろう」
「ですが……」
「何か言われたのかい?」
少し遠くで足音が響く。輝元は迷ってから頷いた。
「私が、父上の子でなければ……と……」
「それはまた酷……い?」
元就は首を傾げる。『貴方が兄上の子でなければ――』と、隆景がそう言ったとして、言葉通りの意味ではないと思うのだ。
輝元は、『毛利の次期当主でなければ自分が面倒を見る義理もなかった』と、そういう風に受け取っているらしかった。
「……隆景は、ああ見えて少し不器用だからね。加減が分からないんだよ」
優しく微笑んで、元就は輝元の頭を撫でた。
足音が近付いてくる。
「輝元様ー!」
隆景の声。輝元はさっと立ち上がり、入ってきた方とは別の方向から部屋を後にした。
そして、少し後――部屋に隆景が顔を見せた。
「父上、輝元様がいらっしゃいませんでしたか?」
「いいや?」
元就が首を振ると、隆景は俯いて「そうですか……」と残念そうに言った。
「失礼しました。私はこれで」
「ああ」
追いかけっこは今に始まったことではない。
しかし普段とは少し違う二人を思い出し、去っていく隆景の背中を見送って、元就はふうと息を吐いた。
庭で元春が槍を手に素振りしていた。元春は廊下をうろつく隆景の姿を見つけると槍を下ろし、代わりに片手を挙げた。
「よう。また若を探してんのか?」
「ええ……」
隆景は手を額にあてながら頷いた。カッと元春が足元の小石を蹴る。
「俺は見てないな」
「……そうですか」
「浮かねえ顔だ、なっ」
小石が隆景の方へ蹴られた。顔の方へと飛んだそれを隆景は軍配で弾き落とす。
「見えなくなるほど追いかけ回してはいませんよ」
「そうかねぇ」
元春の言いたいことは別にあるようだった。
「何かあったか、輝と」
隆景は元春から目を逸らし、軍配を下ろして、それから頷いた。
「……輝元様に、何とも失礼なことをしてしまいました」
「叩いてるのはいつものことじゃねぇか」
「そうではありません。……少し、聞いて頂けますか?」
「ん」
短く返事をして、元春は隆景の方に近付いた。立ち止まったのを見て隆景はその場に腰を下ろす。
「本日は、政についてお教えしておりました。途中まではいつも通りだったのですが、輝元様が突然『もういいです、どうせ私には理解が出来ないのですから……大殿にも父上にも似ない出来損ないの私など構わなくとも……』と仰られ……」
「打ったか」
「……分かりますか」
兄弟だからな、と元春が言う。しかし問題はそこではないのです、と隆景は顔を上げた。
「ついかっとなってしまい、そのまま……貴方が兄上の子でなければよかったのです、と口走ってしまいました」
「……あー」
元春は腕を組む。
「それは不味いわなぁ」
乱暴に自分の頭を掻く。
「お前がどういうつもりで言ったにしてもよ、輝は傷付くに決まってんだろ」
「……ですからこうして探しているのです」
隆景は哀しそうに目を伏せ、声を絞り出した。元春には、その隆景もまた傷付いているように見えた。
「父上のところには居なかったんだな」
「ええ」
「じゃあ、兄貴か……ま、こっちに来ることがあったら教えてやるよ」
「お願いします」
隆景は立ち上がるとぺこりと頭を下げ、また廊下を駆けていった。
部屋に入ってくるなり膝を抱えて座ってしまった息子を、隆元は困った顔で見つめていた。
「……ええと」
声をかけても、輝元が何かを話そうとする気配はない。
しかし隆元も親であり、元就の子だ。大方は想像がつく。
「隆景と……何か、あった……?」
小さな肩がぴくりと動く。
「……はい」
やがて帰ってきたのは震えた声だった。
輝元は瞳にいっぱいの涙を溜めながら顔を上げた。
「私は……叔父上がすきです」
「え、」
一瞬はっとなった隆元は、しかしすぐに輝元が単純な意味で使っているのだと思い直す。
まだ輝元が幼い頃、世話役を買って出たのは隆景だった。ある意味では、実の父である隆元よりも懐いているし、恐れてもいる。
「しかし、叔父上は、私など……厄介者としか思っていないのでしょうか……」
「輝元……」
隆元が口を開いたとき、乱れた足音が、聞こえた。
隆元はふっと微笑んだ。
「……ちゃんと、話してあげて。隆景は優しい子だから……」
立ち上がり、静かに退室する父親を、輝元は不安そうに見送った。
それとは違う影が障子に映る。
「あ……」
遠慮がちに障子が開かれ、叔父と甥はこの日やっとの再会を果たした。
「輝元様……」
隆景は静々と畳の上に膝をつくと、そのまま深く頭を下げた。
「ご無礼をお許し下さい」
「叔父上!」
輝元が慌てて隆景の方に手を伸ばす。この叔父が正式な場以外で頭を下げたところは殆ど見たことがない。
「お……お止め下さい!」
「いえ……私は心ないことを申してしまいました。輝元様」
隆景はやっと輝元を見上げた。
「本当は、貴方が兄上の子供でさえなければ、このような負担を負わずに済んだのに……という思いで言ったことなのです。しかし言葉足らずだったようで……本当に申し訳ありません」
よくよく考えてから発言せよ、とは、隆景の方がいつも言っていることだ。輝元はそれを思い出し、同時に、隆景自らがその教訓を忘れてしまうほど頭に血が上ってしまっていたことに気が付いた。原因を作ったのは自分だった。
「輝元様」
穏やかな瞳が輝元を捉える。
「どうかご自分を卑下なさらないで下さい。貴方には貴方にしか出来ぬこともあるのです」
「叔父上……」
戸惑いながら、それでも輝元は隆景の手を取った。大きな掌を。
「どうか、これからも私にご薫陶頂けますか」
まだ少し怯えながら、輝元は、言った。
隆景は僅かに目を見開き、瞬きをして、にこりと微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。……しかし、厳しくは致しますよ」
「う、うう……しょ、承知の上です……!」
自分を恐れながらも教えを乞い、そして時には親のように慕う甥が形容しがたい程に愛おしくなってしまい、――隆景は若殿をぎゅうと抱き締めた。
「……私はいつでも大切に思っておりますからね」
腕の中には愛しい我が子のようなぬくもり。
障子に背を向けたままの隆景は、そこに二つの影が映っていることなど知りもしない。
「仲直りは出来たみてえだな」
元春は小声で隆元に囁く。
「……そうだね」
立ち聞きは悪いと思いながらも、隆元は口元を緩めたまま答えた。
「ま、あいつのことだから、明日になればまた輝を泣かせることになるんだろうけどなー」
楽しそうに元春は笑う。隆景の飴と鞭が激しすぎることにはきっと、本人は無自覚でいるだろう。
「……で、も」
障子の向こうを振り返りながら隆元が言う。
「隆景に任せていて、……よかった、よ」
輝元を実子のように慈しむ隆景と、多忙であまり構ってやれない自分と。どちらの方がより親らしいかと考える。が、本当のところ結論は出ない。
「ああ、」
急に元春が普段通りの声を上げた。
「父上にも、落ち着いたって報告しといた方がよさそうだな」
「……そうだね」
立ち去る二人だが、この声は流石に中の隆景にも届いた。
隆景は漸く立ち聞きされていたことを知り、真っ赤になりながらも、暫く輝元を離そうとはしなかった。