蛍雪
夕涼みへと外に出る。
もうあまり自由ではない身体を引き摺るのも面倒だったので、隆景は縁側に腰掛けた。静かな夜だ。星も出ていない。何の音も聞こえない。
すっと帚星のような柔い光が隆景の前を横切った。
「あ――」
思わず手を伸ばそうとして、止める。
わざとらしいまでに光を放つそれの正体を、隆景は当然知っている。星などではない。
もっと尊いものを燃やして輝く、ひかり。
鉄と火薬の臭いがする。
土煙の立つ戦場から抜け出し、隆景は奔っていた。
「兄上!」
陣の中に入ったとき、兄元春は既に伏していた。一気に全身の血が凍り付く。よろめいた隆景を目にし、元春は現役の頃と然程変わらない手を、似ても似つかない弱々しさで挙げた。
「よー……なんて顔してんだ」
隆景は立ち尽くしたまま短く荒い呼吸を繰り返している。どちらが病人か分かったものじゃない――と元春は笑う。
「悪いが、そんな喋る気力ねえんだ……こっち来い」
そう元春がひらひらと手招きすると、隆景は操られるように一歩一歩、前へ歩いた。横になった元春の傍まで来ると、倒れ込むように膝をつく。今にも泣き出しそうな顔をしていたが、それが分かったのは元春だけだった。
「兄上……」
「俺なら大丈夫だ……ああ、そんな顔するなっての」
無骨な掌が隆景の髪を乱暴に掻き乱す。強張っていた表面は次第に笑顔を作った。心の方は、隆景にも分からない。
元春の手が離れた。隆景はそれを目で追った。元春の率直な笑顔と視線がぶつかる。自分のものとは、違った。
「そうだな……この戦が終わったら、また子供のときみたいに遊ぶか……」
か細い声を絞り――元春はそのまま目を閉じようとしたが、思い出したようにゆっくりと起き上がり、隆景に小指を差し出した。
「約束しようぜ、隆景。また二人で……」
「……――ええ」
声を震わせ、隆景は元春の小指と自分のそれを絡ませた。
意味はとっくに分かっている。
「……いつか、きっと……」
隆景はそのまま戦の中へと戻っていった。
自分の目で見た光景を信じてはいなかった。
兄の訃報を耳にする、その日まで。
「兄上……」
隆景は一人きりの縁側で呟いた。
ふっと目を閉じる。
瞼の裏では、かつて何処かの庭で兄と本気で雪合戦をしたときの光景が蘇っている。
お互い意地になり、引き分けになった後も何度も仕切り直し、最後は端の方で雪像を作っていた長兄まで巻き込み――父に叱られた。
もう、誰も居ない。
誰も、隆景の隣に居ない。
薄く目を開いた。
静寂に落ちた闇に、一筋、灯りが舞う。
それは隆景の傍を飛んだり離れたり、また近付いたりを繰り返していた。構ってくれとでも言うように。
「……――っ」
隆景はもう一度、今度はしっかりと手を伸ばした。
灯りは隆景の手に収まろうというところでスイと身体を避けた。
「ああ……」
ぽたり。
地面に雫が垂れる。いつの間にか隆景は庭に降りていた。
隆景の少し先で灯りは尾を引いて回っている。
「約束……でしたね」
追いかけるように、隆景は足を踏み出した。
「兄上……また、いつかのように……」
手を引かれ、駆け回った日々を思い出す。もう一度、と。隆景は手を伸ばす。もう一度、もう一度。何度も唱えて。
「――二人で」
指が、淡い光に届こうとしたときだった。
隆景は、
夕涼みへと外に出る。
不思議と軽くなった身体を跳ねさせ、庭へ躍り出た。
茂みで何かが光る。
「……あ」
二つの灯火が橙色の糸を引きながら姿を現す。
「蛍……」
片方が前へ出たかと思えば、もう片方がさらに前へ出ようとし、それを避けたかと思えば真っ直ぐ後をつける。
まるで鬼ごっこをしているようだった。
蛍は走る。気持ち良さそうに空を飛ぶ。残影を鎖のように絡ませ、つかず離れずの距離で飛び交う。
「叔父上たちのよう、ですね」
最後の柱を亡くしたとある当主は、くすりと笑った。
口の中は少しだけ塩辛かった。
夜の下を二人は駆け抜ける。手を取り合い、二人で走る。
「お、お待ち下さい、兄上」
息を切らした隆景が懇願しても、元春は笑うだけだ。
「まだまだ。先は長いんだぜ、休んでどうする」
「ですが……」
「ほら、」
元春は走る速度を上げた。足を絡ませそうになりながら隆景も必死についていこうとする。その手を元春は不意に離した。
「走れ、隆景。どっちが先に着くか競争だ」
「……全く、兄上は……」
元春が振り返って笑い、隆景も顔を上げ、笑う。
「父上と兄貴が待ってる」
風を切りながら、元春は言った。
「……ええ」
負けるものかと走り、肩を並べたところで隆景は返した。
蛍は、空の方へ溶けていった。