暑中見舞い申し上げます | ナノ

暑中見舞い申し上げます


あれ」
 と思った瞬間に、元就は足元が柔らかくなるのを感じた。歩こうと動かした足が着く先を知らない。目を開いているはずなのに、光が入らない。
「大殿!」
 輝元の声が聞こえる――。
 ぎらつく太陽を真上に受けながら、元就はそれだけを考えた。

「全く――」
 苦笑しながら宗茂は濡れた手拭いを桶の上で絞る。
「どうして貴方は、俺が来た時を計ったように倒れなさるのでしょうかね」
「計ったわけじゃ……」
 布団に寝かされた元就が青い顔のまま反論した。額に先程絞られた手拭いが乗せられる。
「太陽をお好きなのは知っていますが、この季節は程々になさって下さい。輝元殿が泣きそうな顔で俺を呼んだ時には何があったかと――」
「ああ……だって……」
「だって?」
 宗茂が聞き返したときには、元就は目を閉じ、すうと寝息を立ててしまっていた。
 見計らったように障子が開いた。
「到着早々お手数をお掛けしました」
 暑い日にも凛とした立ち姿で、元就の三男である隆景が部屋に入ったかと思えば、まず部屋の惨状に眉を顰めた。元就が書斎と、時折寝室としても使用している場所には相変わらず紙と墨と埃の臭いが充満している。
「礼には及びません」
 宗茂は隆景の方を向いて座り直す。隆景も眠りに入った元就を一瞥すると、その場の本をよけ、宗茂と向き合うように腰を下ろした。
「珍しく貴方が文を寄越したものですから、父上にお知らせしたまではよかったのですが……」
「元就公が屋敷の前で倒れられ、そのとき傍に居た輝元殿が大きな声を上げて……駆けつけなさったのですね」
「ええ。丁度貴方が到着されたようで、出遅れることにはなりましたが」
「それにしては落ち着いていられる」
 笑いながら放たれた言葉に隆景はふっと顔を上げ、宗茂を見つめ返し、それから小首を傾げて微笑んだ。
「おかしいでしょうか」
「御父上が」
「心配ではありますが。……貴方は、父上が危険な状態でもそうして澄ました顔で居られるのでしょうかねぇ」
「なるほど――」
 くつくつと宗茂が笑う。
「俺がこうしている以上、元就公の容態は危惧するまでもない、と?」
「分からないほど愚かではありまするまい」
 隆景は膝を数回払い、すっと立ち上がった。一礼する。
「私はこれで。勝手ながら、父上は引き続きお任せします。ご無事である以上、私にもやるべきことがございますので……」
「ご安心を。お目覚めになるまではここに居させて頂きますが、よろしいですかね?」
「勿論です。ただ――」
 元々細まりがちな瞳がさらに伏せられる。
「……妙な真似は」
「まさか、寝込んでいる相手には」
「ええ、信じていますが、念のため」
 互いの言葉尻を打ち消し合い、遠い義理の繋がりで結ばれた二人は笑う。
 では、と隆景は退室していった。

 また随分と太い釘を刺されたものだな――。
 誰も居なくなった部屋、眠る元就と二人の部屋で、再び手拭いを水で冷やし直しながら宗茂は喉の奥を鳴らした。
 釘を刺されたところで、痛くも痒くもない。元よりそのつもりはないのだから。
「俺も信用されていませんね」
 少し冷えた布が元就の額を包む。
 倒れた直後に水だけは摂らせたが、こうも眠っていては流石に宗茂も心配になってくる。年齢よりは老けて見えないが、元就もそう若くはない。宗茂は暑さにも慣れているが、元就はそうとも言えない。加えてこの日は特に日差しが強い。
 ――などと宗茂が考えている間に、元就の瞼が動いた。
「ん……」
「ああ――」
 安堵の溜め息。
 むねしげ――と、元就が舌足らずに呼んだ。
「私は……ああ、寝てしまっていたんだね……」
「それはもう、ぐっすりと」
「昨夜は遅くまで著作を――」
 そう言いながら元就はゆっくりと起き上がる。手拭いが膝の上へ落ちた。
「……」
 ぼんやりと手拭いを見つめる元就。何を考えているものかと宗茂は見守っていたが、やがてはっと覚醒したように元就が顔を上げた。
「あ、あれ? どうしてこうなったんだっけ?」
「……元就公。寝ぼけておられたのですか」
「ええと……確か君を待っていて……」
 右手で前髪を掻き上げ、元就は必死に記憶を辿る。
「うん……そうだ。君が中々見えなかったから」
「つまり」
 要領を得ないような元就の言動だが、その中で気付いた事実に宗茂は微笑む。
「随分と長い時間、俺をお待ちだったのですね?」
 髪を弄っていた元就の指が止まり、ついと一束を摘んだ。
「今朝に着くと言われて、それが遅かったから心配くらいしても……いいじゃないか」
 最後の方はごにょごにょと小さな声で誤摩化されたが、宗茂が聞き逃すはずもない。
「申し訳ありません、途中で少々雨に降られましてね。しかし、何も表で待っていなくてもよかったのでは?」
「まあ……」
 元就は前髪から手を離し、積まれた本の山に目を向けた。
「……もう、君には隠す必要もないのかな」
「そうですよ。看病までさせておいて」
「それは本当に済まないと思ってるけど……」
 宗茂が手を伸ばし、元就の腕を取る。わざわざ身を屈め、元就の顔を下から覗き込むようにして微笑んだ。
「お聞かせ願えませんか?」
「はあ……」
 元就はわざとらしく溜め息を吐き、宗茂が触れていない方の手で、自分の腕を掴む手の甲を包んだ。
「分かったよ、白状しよう……。――君を待っていた」
「わざわざ外で」
「……待ち切れなかったんだ」
 しゅん、と叱られた子犬のように元就の眉が下がる。――卑怯だ。宗茂は元就の無意識であろう表情を心底恨む。
「君の顔を早く見たかった。それだけだよ。……これでいいかい、宗茂」
「――ええ」
 顔を下げ、宗茂は自分に重ねられた手に口付けた。そしてまた元就を見上げる。
「充分すぎるくらいのお答え、ありがとうございます」
 元就の黒い瞳には、整い過ぎた青年の笑顔が映り込んでいる。元就は黙ったまま静かに宗茂を見つめた。この反応は予想外だな――笑顔の裏で宗茂は思う。
「だから――」
 いつも緩みがちの唇が動く。
「待たせた君も悪いよ」
 今度は、宗茂が黙った。少しだけ目を見開き、顔を上げ、また静かに――微笑んだ。
「申し訳ありません」
「ああ、喉が渇いたな」
「ふ……お待ち下さい」
 するりと手が抜ける。自分の腕から離れていくそれを元就は濡れた瞳で見送り、またへにょりと眉を下げた。しかし口元は笑っている。
「早く、ね」
 部屋を出ようとしていた宗茂は足を止め、肩越しに振り向いた。
「勿論です。……今日は、一日面倒を見させて頂きますよ」
「それは――」
 元就の言葉を待たずして宗茂はふっと笑い、部屋を出た。
「――望むところだよ」
 だから、最後の声は耳に届かない。
 元就は布団を押しのけて立ち上がり、もう少し周囲の空間を広げようかな――そう思い、ゆっくりと散らばる本を山に積み重ね始めた。




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