春景1


 元春は、辟易していた。
 目の前には閉め切られた障子がある。主は数日前からずっと閉じ篭ったまま、一歩も部屋を出ていない。この書斎ではよくあることだったが――今回は事情が少し違う。元就の部屋ではあるのだが、今この中に閉じ篭っているのは元就ではない。
「隆景、入るぞ」
 一応は礼儀として声をかけ、元春は障子を乱暴気味に開いた。いくら兄弟が掃除をしても父親はすぐに散らかし、埃が溜まる。それを口酸っぱく注意しているのは他でもない隆景なのだが、その隆景が書斎に籠り、本の虫となっている。
「いやー、相変わらずの惨事だな」
 元春は笑いながら言った。文机の傍に座る隆景は本を広げて没頭しており、元春には返事さえしない。少し、それが頭に来る。だが元春は表に出さない。
「父上がお帰りになる前に片付けるって言ってなかったか?」
「……ええ」
 隆景は漸く反応した。
「そのつもりではありますが」
 そう言ってまた文面に意識を沈める。「つもり」ではあるが実行に移す気はない、と言っているようだった。
 二人の父親、元就は長男の隆元を連れて遠征に赴いている。二人は居城の留守を預かったのだった、が――遠征とは名ばかりの視察に等しいもので、実際は平和極まりない居城では特に気を張る理由もなく、この際だからと隆景は元就の持つ(元就の著書ではない)書物を読み漁ることにした。勉強熱心なことだ、と元春は思う。自分が日々絶えず身体を動かしているのと同じだろうか、とも思うのだが、隆景の場合は些か事情が違った。部屋を閉め切り、大量の文字に身を委ねる。同じことをよく元就がしているが、隆景は「ご自愛下さい」とよく窘めていた。
「お前は本当に父上似だよな……」
 食事も部屋に運ばせ、後は厠と湯を浴びる以外は一歩も外出しようとしない。そんな日が数日続いている。元春も、止めさせることは諦めた。代わりによく、ちょっかいを出しに訪れた。
「何読んでんだ?」
「……」
 隆景は答えない。空気が若干張り詰めたことから、元春は機嫌が悪くなったなと悟った。邪魔をするな。無言の圧力が背中から発されている。面白くない――。元春もまた、いくらか不機嫌になる。
「たまには外で身体動かせよ」
「……今は、書を読みたいので」
 苛立った声が隆景から上がる。――ああ、本当に面白くない。刺々しい心は空気を冷やす。元春はひとしきり髪を掻き乱し、ある思いつきに至った。
 自分の世界に入った隆景は少し近付いた程度では何の反応も見せない。元春が耳元まで顔を寄せてもそれは同じだった。無視をしよう、と決めていたのかもしれない。元春はにっと悪童のように笑い、そして、ふっと息を吐いた。
「ひっ」
 甲高い、聴く者によっては甘い悲鳴と共に隆景が肩を跳ねさせ、本を落とす。鼓動の早鐘を抑えようと必死に尽くし、隆景は真っ赤な顔で肩越しの元春を見上げた。
「な、何をなさるのです兄上」
「……いや、お前のせいだろっていうか……いい声出たなあ」
 感心したような元春の言い草に隆景は耳までを染める。まさかここまで赤面するとは元春も想像していなかった。顔を背けて再び黙り込んでしまった隆景だが、先程までの沈黙とは勿論意味が違う。元春はさらに悪戯心をくすぐられ、隆景の肩に手を乗せてもう一度耳元に唇を寄せた。今度は、耳朶に柔らかく噛み付く。
「っ」
 身を捩ることも許さず、元春は隆景の身体を後ろから抱き締め――むしろ羽交い締めにし、耳殻を甘噛みし続ける。隆景はとうとう観念し、両手を上げた。
「お願いします、どうかお止め下さい……。私は、其処はあまり強くないのです」
 耳元に直接元春の笑い声が吹き込まれる。
「いいことを知った」
「……私も、兄上にいい加減な対応をしていればどうなるかよく分かりました」
 離して下さい、と隆景は懇願したのだが、元春はそれを拒否した。
「俺を無視した罰だ」
 言い張る元春に、隆景は己の行為を悔いるのだった。




▲ページトップへ
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -