湯辺りにご用心 | ナノ

湯辺りにご用心


「おや、奇遇ですね」
 白々しく響いた声に隆景は苦笑じみた笑いを浮かべた。
 湯気が視界を遮ってはいるが、声の主は言わずとも知れている。日頃父の傍でよく見かける彼を忘れずはずもない。また、自分自身も何かと付き纏われているのだ。他に人の影がなく、のんびりと楽しむはずだった時間を邪魔されたことで隆景は少なからず不機嫌になった。縁の石に肘を置き、一糸纏わぬ肌に汗を浮かべ、濡れた髪をさらりと掻き分ける。乳白色の湯に波が立つ。
 そう、ここは温泉だ。
 隆景が城下に出来た温泉を気に入り、その割には誰も誘わず、また人の少ない時間を狙って通うようになった――というようなことを宗茂が知ったのは昨日のことだった。元就が何気なく洩らしたのである。あの子も大分疲れてるみたいだからねえ、休みたいんだろうね。元就はそう言っていた。
「どうしてここに居ると?」
 しかし隆景の質問には勿論正直に答えない。
「いえ、全くの偶然ですよ。暇になったものですから」
 掛け湯の後、宗茂が湯の中に浸かった。「寄らないで下さい」と言い放って隆景はその場を離れる。上気した頬は勿論温泉に因るものなのだが、台詞と相俟って、宗茂は何処か背徳的な情景を眺めているような錯覚に陥った。とはいえそれも一瞬のことではある。
 周りに人は居ない。もし誰かが入浴していたとしても、名の知れた二人の傍に集まることはないだろう。
「上がります。お一人でごゆっくりお休み下さい」
 隆景は早口にそう言うと立ち上がろうとしたが、湯の中にしては素早く近寄った宗茂に腕を掴まれ、振り向いた。不快そうな表情を浮かべている。
「何か御用ですか?」
「まあまあ、せっかく二人で話せる機会なのです。秀包殿のお父上は俺の父上であるも同然。どうです、たまにはゆっくりと」
「私はお話することなどありません。それに貴方の目的は他にあるとお見受けしますが」
 明らかに壁を作るような隆景の物言いに、宗茂はにこりと笑みを浮かべた。
「流石は元就公のご子息。ですが、正直に申してもお付き合いして頂けないでしょう?」
「私は貴方を信用してはいませんから」
「おや。これは随分と嫌われたものですね」
 にこにこと微笑んでいる宗茂に身体ごと向き合い、隆景は若干膝を伸ばしたまま、普段は自分よりも背の高い宗茂を見下ろした。
「そのようにいい加減な物言いの人間を、私は戦以外で信頼しようとは思いません。良い武将なのは認めますが、それまでです」
「清々しいですね。俺はお慕い申し上げているのですが、隆景殿」
「戯れ言は結構です」
 隆景は宗茂の手を漸く振り払い、今度こそ立ち去ろうとした。その背へ再び言葉が飛ぶ。
「残念です。しかし、よいのですか? 貴方の持っていた手拭いは俺の手にあるわけですが」
 きっと睨みながら振り返った隆景の瞳に、手拭いを手で弄ぶ宗茂の姿が映る。腰に巻くつもりで置いていた手拭いだったが、入浴中は流石に外して岩の上に放置していた。流石に、この若者の前で全裸を晒してまでこの場を後にしようとは思わない。あまりにも危険を伴っている。
「返しなさい!」
「さあ、嫌だと言えばどうしますか?」
「力尽くで取り返すまでです」
 言うなり、隆景は宗茂の持つ手拭いに腕を伸ばした。当然距離は縮まる。宗茂はそれをいいことに、空いた手で隆景の腰を掴んだ。暴れる隆景も軍師とは思えない身体付きをしているのだが、西国最強の男に適うはずもない。無理矢理抱き寄せられそうになるのを押し返して拒絶し、隆景は宗茂を睨む。
「丸腰で俺に抵抗するなどと。元春殿ならともかく、隆景殿には負けませんよ」
「貴方は何をしたいのです」
「隆景殿とお話したいだけです」
「……餓鬼ですね」
 隆景はあえて、宗茂の口調を真似た。それから溜め息を吐いた。
「仕方がありません。少々ならば付き合って差し上げます。それで満足して頂けなければ困ります」
「ええ、祝着至極に存じます」
 恭しく頭を下げる宗茂を蹴り飛ばしてやりたい。隆景は心底そう思ったが、その代わりに距離を置いた。人が三人分ほど間に入れる距離だ。
「とはいえ、私からお話することは何もありませんが」
 もはや隠そうともせずに眉を顰め、隆景は言った。出来るだけ早くこの男の前から姿を消したい。そう強く望んでいる。隆景が宗茂をこれほどまでに警戒するのには、勿論理由がある。
 それは父と親しい宗茂への嫉妬、というのも含まれているのだが、最も大きな要因は――宗茂が元就ではなく隆景にまで興味を抱き、それが情念にまで発展したことを本人から告白されたことだ。宗茂からするとよくある出来事のように語られたが、隆景は違う。側室を持とうと考えたことすらない。ましてや、親子どころか祖父と孫くらいに歳の離れた男から操を立てられようとは想像もしていなかった。
「では、俺からお聞きしましょう。隆景殿、貴方はお幾つなのでしょう?」
 風呂に浸かっていながら涼しい顔でこちらを見つめてくる宗茂を、隆景は睨み返す。
「貴方の二倍以上は上です」
「元就公さながらの若作りですね」
「それも血筋なのでございましょう。質問はそれだけでしょうか」
「そう焦らないで下さい。では話を変えましょうか。何故そこまで逃げたがるのです?」
「私からすると、このような老いぼれに魅力を感じる貴方の方が理解に苦しみます」
「俺からすると、元就公も隆景殿も同じように愛おしいものですが?」
 白い歯を見せ、宗茂は何の躊躇もなく言い放った。隆景の不快感は余計に増していく。感じ取った宗茂はさらに言葉を足した。
「ああ、しかし、あえて理由を申せば、貴方をより近くに感じられるからやもしれません。一度はご隠居された元就公より、未だ現役の隆景殿との方が戦さ場に立つ機会は多かったものですから。本当のところは、ただの直感ですがね」
「全く理解が出来ません」
「人を愛することにまで、理屈が必要ですか?」
 むしろこちらの方が理解出来ない、といった風に宗茂は首を傾げた。隆景が暫し考え込むような仕草を見せる。言葉数を多くして煙に巻くことは互いの、そして元就の常套手段である。その中で投げかけられたこの質問は、隆景には本音の疑問に思えた。手を叩こうとしていつもの軍配を手にしていないことを思い出す。
「私は貴方が嫌いです。宗茂殿」
 濡れた睫毛を伏せ、隆景はそう言った。
 バシャ、と水面が揺れる。宗茂の動きを止めた一瞬を狙い、隆景は手拭いを奪い取るとさっさと腰に巻き、湯から上がってしまった。
 気付いた宗茂が背後で笑う。
「俺はしつこいですよ」
 滑らぬよう慎重に、しかし早足で隆景は出入り口の方へ歩き出している。しかし一度だけ足を止め、肩越しに返事をした。
「何度でも追い払って差し上げます」

 外に出ると、元春が通りかかったので隆景はすぐに声を掛けた。ここに居たのか、と元春が笑顔になる。だがすぐあることに気付き、片眉を上げた。
「随分顔が赤いが、大丈夫か?」
 隆景は自分の頬に手を当て――微笑み返した。
「少し、長湯してしまいました」
 西からの風に、隆景は目を細めた。
 風は柔らかく、心地よかった。




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