なまごろし。(昼) | ナノ

なまごろし。


 ああ、どうすればよいのでしょうか。
 隆景は軍配で口元を隠し、長い溜め息を吐いた。兵の鍛錬を指揮している最中である。元より忠誠心の高い兵達が槍を下ろし、隆景の周りに円を作る。
「どうなさいましたか、隆景様!」
「ご気分が優れないのでしょうか?」
「どうかお休み下さい!」
 口々に騒ぐ兵の反応はどう考えても過剰であり過保護だ。隆景は軍配で最も近くに居た兵の頬を打った。
「落ち着きなさい。私は何の異常もありません。それより、命令もなく鍛錬を中断するとは何事ですか。さっさと戻りなさい愚か者」
「申し訳ありません!」
 何処か嬉しそうな表情をしながら兵達が元の配置へ戻っていく。隆景は軍配を下ろし、また手で弄びながら、目を細めて空を仰ぎ見た。
「どうして私の軍はこのような者ばかりなのでしょう……」
 本音ではない嘆きは青に溶けていく。まるでそれが溜め息の理由であるかのように――実際、そう自分に言い聞かせるための言葉だった。私情での憂いなど、軍師には不要。元よりそう割り切っている。
「ですが……――」
 隆景がまた何かを呟こうとしたとき、背後で砂利を踏む音がした。細い影が伸びる。隆景は振り返りながら軍配を翳した。ガキッ、という鈍い音と衝撃を睨み上げ、隆景は軍配を振る。押し返された影がすっと引くのを見送る。隆景は眉を顰めて影の先を睨み、かと思うとふっと微笑んだ。
「随分と手荒い挨拶ではありませんか、兄上」
 愛用の槍を握った元春は悪い悪い、と笑顔で平謝りした。
「指示する側の腕が衰えてちゃ意味ねえからな。その様子なら心配なさそうだが」
「兄上の気配など、すぐに分かりますよ。それにいつも油断するなと仰っているのは兄上ですから。しかし……」
 隆景は元春の身体をじっと眺めた。元春は首を傾げているが、その衣装、というよりは右肩から脇腹にかけての露出がどうしても気になってしまう。毎度の事、ではあるのだが。
「いつも申し上げるのですが……お召し物を、もう少しきちんと着て頂けませんか?」
「別にいいだろ、暑いんだし。本当は上全部脱ぎたいくらいなんだが、お前が怒るだろ?」
「将たる者、身嗜みにもお気を遣って頂きたいのです、私は」
 ――目のやり場にも困りますから。という本音は心の中にしまう。
 元春から目を逸らした隆景はそのまま兵の方へ向き直った。落ち着かないように軍配をもう片方の手へ何度もぶつけている。背後の元春はそんな隆景など気にせず、退屈そうに背伸びしていたかと思うと、にこやかな顔で兵に駆け寄った。
「よし! せっかく見に来たんだ、ついでに手合いでもしてやるよ」
「ただ暴れたいだけでございましょう、兄上。くれぐれも私の兵を台無しにしないで下さいませ」
「分かってるって。さ、何人でもかかってきな!」
 槍を構える元春、しかし兵は戸惑って動かない。見かねた隆景が口を挟む。
「遠慮は無用ですよ。どうせ、貴方がたが束になったところで兄上は折れません。万が一勝てるようなことがありましたら、何か褒美を差し上げてもよいでしょう」
 褒美――その響きに兵は沸き上がった。軍というよりは隆景の親衛隊といった方が正しい連中なのである。隆景は数歩その場から下がり、様子を眺めた。よってかかる自分の兵を元春は易々と凪ぎ払っている。指揮をする立場からすると嘆くか、怒るべきなのだろう。だが隆景はそもそも自分の兵など見ていない。視界に広がっているのは、楽しそうな兄の姿だけだ。
 隆景はまた溜め息を吐いた。そこへ家来の一人が話しかける。
「流石は元春様、あれだけの数をお一人で相手になさるとは」
「そうでなければ、自ら毛利の武を名乗ったりなさらないでしょう」
「……ところで、隆景様は先程よりずっと元春様だけを見ていらっしゃいますね」
「……っ」
 隆景は目の色を変え、軍配を家来の鼻の先に突きつけた。しかし家来はにこにこと笑っている。
「そんなことはありません」
「ならば何故、お怒りになるのでしょう? お熱い溜め息までなさって」
「貴方の思い過ごしです。私は断じて……」
「では、まるで恋煩いのようだと思ったことも私の気のせい、ということでよろしいのですね」
 軍配が風を切る。家来はきっちり顔で受け止め、なおも笑顔で続けた。
「きっと兵も気付いていることですよ。だから無駄だと分かっていてもあのように挑むのです。元春様が羨ましくて仕方ないのでしょう」
「貴方は、私が実の兄にこ、恋をしているとでも言いたいのですか?」
 返事の代わりに笑顔があった。隆景はもう一度軍配で殴ろうとしたが、今度は避けられてしまった。
「隆景様」
「何です」
「長くお悩みになるくらいであればいっそ玉砕なさればよろしいのに、というのが私らの総意でございます」
 穏やかな微笑みには優しさだけがあった。隆景は口を開けたまま暫く固まっていたが、気を取り直して軍配を強く握った。
「何故、私がそのようなことを――」
「終わったぞ、隆景」
「っ!」
 びくりと肩を上げ、隆景はゆっくりと元春の方を見た。元春の周囲には疲弊した兵が膝を突いたり寝転がったりしている。本当に一人で倒し切ってしまったようだった。元春は息一つ切らしていない。
「まあまあだが、まだ俺の兵にも至らねえな」
「……精進致します。さて、私の出る幕もなくなってしまいましたし、お茶でもいかがでしょうか?」
「ああ、頼む」
「では、私の部屋でお待ち下さい」
 一礼し、隆景は屋敷の方へ引き返し始めた。元春も腕を伸ばしながらその後をついていく。ふと隆景が後ろを顧みると、唯一平気で残った家来が微笑ましそうに二人を見ていた。
 ――私が何故、兵ごときに焚き付けられなければならぬのです!
 隆景が早足になる理由を、元春は知らずに居る。

 それは私らの仕事ですからと隆景を止めようとする女中を撥ね除け、隆景は自ら選んだ茶葉を淹れ、元春の待つ自らの部屋へ運んだ。茶請けは父親が余ったからと分け与えた餅だ。
「どうぞ、兄上」
「おう、悪いな」
 どっかりと胡座をかいて寛いでいた元春はそのまま片手で湯飲みを持ち、口をつけて啜った。何の遠慮もない。兄上らしい、と隆景は微笑む。同時に元春の格好をまともに目にしてしまい、僅かに顔を逸らした。何としてでもちゃんと服を着せよう、と密かに決心する。
 元春の齧りついた餅が伸びる。隆景は冷め始めた茶を喉へ流し込みながら、時折ちらちらとその様子を盗み見た。――全く、余計なことを言ってくれたものですね! 隆景は胸の中で己の腹心を呪った。しかし厚意故の言葉であることは知っている。
 隆景の喉がごくりと上下した。
「あの……兄上。よろしいでしょうか」
「んー?」
 餅を頬張った元春は声を出さずに返事をする。開けられた障子の外を見ているので、隆景の目元が紅くなっていることには気付きもしない。
「突然ですが、私は兄上を……お慕い申し上げています」
 最後の方はかなり小さな声だったので、元春は「ん?」と首を傾げた。ここで取り繕うことは容易い。唇をきゅっと噛み、隆景は繰り返した。
「ですから、私は――」
「ん、いや、」
 もごもごと餅を咀嚼し、呑み込むと、元春は片手を左右に振った。
「聞いてた。つーか聞こえてた。耳はいいんだ、俺は」
「そう……でしたね」
 二の句が継げず、隆景はそのまま口を閉ざしてしまった。俯く弟に兄の手が伸びる。それはくるくると遊ぶ髪に絡まり、ぴんと伸ばしたが、髪はすぐにまた丸まってしまった。
「忘、れて、下さい」
 やっとの思いで隆景から絞り出された言葉がそれだった。元春は手を離し、暫し黙ったかと思うと、にっと口角を上げた。
「嫌だね」
「兄上、どうしてですか」
「さあ、」
 不意に廊下が騒がしくなる。隆景様、という声も聞こえる。誰かが隆景を呼びに来るようだ。元春はすっくと立ち上がり、手を振った。
「おっと、俺もそろそろ戻らねえとな。ご馳走さま」
「……兄上?」
「話の続きは夜にでもしようぜ。月が出る頃にまた来るから」
 手を伸ばそうとした隆景を置いて、元春は振り返ることなく部屋を出て行ってしまった。一人残された部屋で、告白の余韻に浸ることすら出来ない隆景がとった行動は一つ。
「隆景様、失礼しま――」
 部屋の前で止まり、声をかけようとした家臣に軍配が投げられた。それは見事に命中し、家臣は勢いで外まで吹っ飛んでしまう。
「貴方達のせいで、私は……覚悟はよろしいですね?」
 玉砕どころか返事さえも貰えなかった隆景の遣る瀬無い感情は、全て怒りとして家中に向けられ、また余計な親衛隊の結束を築いてしまうこととなる。




▲ページトップへ
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -